今より遥か昔、もう何百年前になるのか。

 まだ萃香も華扇も地底にて共に暮らしていた頃のこと、華扇は器に清らかな水を満たしへある術を教えた。
 今でもあの感動をが忘れることはない。
 水面が淡く光を放ち、地上の風景を映し出した、あの時のことは。
 けれどその術では幻想郷の全てを知ることは出来ず、いつも同じ場所の四季が移り変わる様だけしか垣間見ることは出来なかった。

 言うなればそれは、テレビで決まった景色だけを見ているのと同じ。事実その場所を知らないのと同義であろう。
 あくまで知識止まり、経験には程遠い。

 だから。は、地上を知りたいと思った。


「……っ!」


 溢れる光は、常闇に慣れた目には眩しすぎる。

 地上に出たは耐えられず、両目を覆ってうずくまった。
 こめかみにずくずくとした疼痛が脈動するのと同時に、瞼の裏で赤い光が明滅する。それが落ち着くのを待っていると、ざわ、と木々がざわめいた。

「もし。どうかなさいまして?」

 突如現れた気配に驚いて顔を上げ薄目を開けると、そこには一人の女が立っていた。
 金の緩やかな長髪はいくつかの束に分けられ、赤のリボンでくくられている。ゆったりとしたシルエットのナイトキャップと紫のネグリジェを纏い、独特な造形の日傘を携えた佇まいはどこかうつろで、そして優雅だった。
 その輪郭を認識できる頃には、の視覚は地上の光に慣れ始めていた。

「あなたは――賢者さま?」
「あら、私のことを識っているのね。如何にも、私は八雲紫。妖怪の賢者と呼ばれることもありますわ。そちらはどなた様?地底よりはるばる、どういったご用件で?」

 すぅ、と。
 紫は両の目を細め、値踏みするような品定めするような視線をに向ける。
 まだ身の上を話したわけでもないのに、紫はが地底よりの来訪者だと理解していた。得体のしれない胡乱な雰囲気を感じながらも目をそらさず、はまっすぐに紫を見返す。

「申し遅れました。私は虎熊。お察しの通り地底、旧都より参りました」
「……成程。それで?地上には何をしに?」
「お姉様二人に…萃香姉さまと華扇姉さまに会いに」
「そう……」

 の答えに納得したらしく、紫がくるりと背を向ける。去りゆかんとする後ろ姿を見送ろうとしていると、紫はあ、と声を溢してを顧みた。

「ひとついいかしら?」
「なんでしょうか」
「華扇の事だけど――彼女は今自らの種を偽り、仙人として暮らしているわ。茨華仙を訪ねる際のご参考までに」
「え…」
「それではごきげんよう」

 思いもよらぬ事を告げられ、驚きと共にが瞬きした刹那。

 別れの言だけ残して、紫は消えていた。

 種を偽り、仙人として。
 その言葉が腑に落ちず、は口に出して反芻する。幼少のみぎりよりは、鬼は幻想郷における最強種で、偽らない者だと教えられてきた。その血を引くことを誇りにも思っている。
 なのに、何故。

「華扇姉さま……」

 問うように名前を読んでみても、かの人の心がわかるはずもなかった。







「紫様」

 風に枝葉を揺する木々の間隙。自らの操る奇妙な異空間の破れ目に凭れながら、戸惑う少女を観察する主へ、九尾の従者が声をかける。

「あの娘がどうかされたのですか?紫様自ら出向くなんて珍しい」
「藍。ええ、珍しいでしょう?あの子の気」

 すらりと細い指先が、を指し示す。

「はい。妖気ではないようですが……これは一体…?」
「……昔、変わり者の友人がいてね。彼女は幻想郷の最高神である龍と子を成したわ」
「その子供が、今の娘というわけですか」
「虎熊……。懐かしい名を聞いたものだわ……」

 遠い過去に思い馳せながら、紫がしみじみと声を零す。その双眸は、懐古と少しの悲しみをたたえていた。

20121025


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