カランコロン。

 すっかり悄然として、酔っているのかいないのかフラフラと旧都へ帰っていく勇儀。その後ろ姿を見送ってため息ひとつ零したパルスィは、勇儀が去っていった方とは反対の橋の入り口に立つ人影に気付く。
 彼女は今にも泣き出してしまいそうな面持ちで、スカートをきつく握りしめていた。

……」
「橋姫さま、わたし…勇儀姉さまに無神経なことを、言ってしまいました……」
「そう?」
「そうです。勇儀姉さまが私を大事にしてくれているのはわかってたのに…私、自分が恥ずかしい…!」

 自分の言動を恥じたは、顔を両手で覆い俯いた。パルスィはゆっくりと歩み寄り、宥めるように小さな肩に手を置く。

、あんたがそんなに気に病むことじゃないわ。私から見ても勇儀の束縛はやりすぎだったもの」
「でも……」
「まぁ流石にあいつも頭が冷えたでしょうよ。結構こたえたみたいだし。ふふ、いい気味ね。今なら話も通じるんじゃない?」

 の気をほぐそうとしてくれているのか、おどけた調子でパルスィが肩をすくめて見せる。その意図が通じたのか、顔を上げたは苦い表情で少しだけ笑った。
 の様子も落ち着いたので、二人は並んで欄干に寄りかかった。

「……ねぇ橋姫さま。私ね、地上に会いに行きたい人がいるの」
「知り合い?でもあんた、生まれてすぐ地底に来たんじゃなかったかしら」
「知り合いというか、お姉さまです。萃香姉さまと華扇姉さま」

 その名前には心当たりがあった。伊吹萃香と茨木華扇――勇儀と同じく、妖怪の山で四天王と呼ばれた実力者達だ。彼女らは鬼のリーダー的存在であり、この地底においても四天王とされている。旧都の実質的な支配者とでも言うべきか。
 しかしながら伊吹萃香と茨木華扇の二人は今や、地上に出ていったっきり戻る気配はない。

「成る程ね。
ところで前から思ってたんだけど、四天王って言う割には三人しかいないわよね。あと一人はどうしたの?」
「母さまは地上で人間に討たれたと聞いてます」
「ふーん……
ってあんた、四天王の娘だったの!?」
「はい。虎熊白弥が私の母です」

 パルスィにとっては意外な新事実だったらしい。声高に驚くパルスィに対し、はいたって普通に頷いて見せる。

「龍と子供を作るなんてとんちんかんな奴がまさか四天王だったなんてね…あ、でも勇儀もとんちんかんだったか。
そもそも鬼にまともな奴なんかいるのかしら」
「あ、あはは…。
でも確かに母さまは変わり者だったみたいです。四天王の称号も『奇』だったようですし」
「ふーん……」

 話をしながら、の横顔を見つめるパルスィ。虎熊白弥が地上で討たれたのなら、に母の記憶はあるまい。親子間の繋がりが希薄な妖怪の中にありながら、天狗や鬼は仲間意識が高いと聞く。同族の情も。それは時に、人を凌ぐという。
 元は土地神であった自分にその辺りはわからないが、母がいないことに寂しさを覚えなかったはずはない。嫌な話題をふってしまった、と考え込んでいると、が不思議そうにこちらを見上げてきていた。

「橋姫さま?難しい顔なんてされてどうかしました?」
「別に、なんでもないわ。それより今日はもう帰りなさい。あいつが心配してるわよ」
「……はい。
橋姫さま、今日はありがとうございました…」

 パルスィに向き直り、ぺこりと頭を下げると旧都の方へ帰路を取る。そんなの背中を眺めるパルスィの顔には、どこか複雑そうなものが浮かんでいた。

 屋敷に戻ると、勇儀は広間にはいなかった。宴会を続けている妖怪によれば、帰ってすぐ自室に向かったという。

「えらく気落ちされとったが……もしやおひぃさん、喧嘩でもしたのかい?」

 問いかけに眉尻を下げるに、的を得ていることを悟ったのだろう。初老の妖怪はばつが悪そうに後ろ頭をかく。

「なにがあったかは知らんが、よかったら早いとこ仲直りしてくださらんか。このままじゃ荒れた姐さんの相手をしなきゃならん」
「はい…」

 割りと深刻な顔つきの妖怪が暗に言わんとしているもの。と仲違いしている最中の勇儀は、とにかく機嫌が悪い。やけ酒をがぶ飲みして悪酔いし、憂さ晴らしに誰彼かまわず勝負を吹っ掛ける…いわば一種の災害だ。こうなればか他の四天王でしか止められないと言うのだからたちが悪い。最悪である。
 脳裏に蘇る以前の災難に申し訳なくなりながら、は勇儀の自室へと急いだ。

「勇儀姉さま…まだ起きてますか?」

 勇儀の部屋の前。
 障子の前から、控えめに伺いを立てる。もし休んでいたら邪魔をしてしまわないようにというの配慮だったが、その必要はなかったらしい。

「……起きてるよ。何の用だ?」

 返ってきた声にいつものような明朗さはない。緊張して言葉につまりかけたが、意を決し口を開く。

「お話があります」
「……入っておいで」

 許しを得て障子を開けると、勇儀は寝巻き用の浴衣を大胆にはだけさせながら、布団の上に寝そべっていた。行灯の仄かな明かりに照らされた姿態には、色香を超えた凄艶さすら感じられる。少し弱ったような仕草がそれらを一層増長させていた。圧倒されて入り口に立ち尽くすに、勇儀が中に入るよう再度促す。

「あの、失礼します……」
「で、話ってなんだい?地上にでも行きたいのかい?」
「……はい」

 こうなることを読んでいたといわんばかりの勇儀の言葉を、は真剣な面差しで肯定する。身体を起こしあぐらをかいた勇儀はしかめ面をすると、がしがしと頭をかいた。

「一応、わけを聞かせてもらおうか」
「人間の、サポートの中に…萃香姉さまがいたとおっしゃってましたよね?」
「ああ。それがどうした」
「萃香姉さまが地上へ行かれて久しいし…会いに行きたいの。華扇姉さまにも。どうか……お許しいただけないでしょうか」

 恭しく畳に手を添え頭を下げたの後頭部を、勇儀は黙ったまま見つめる。この、姫が。自分の元を去ると言う。勇儀がを地上へやりたくない理由は、そこにあった。
 地上には、地底には無いものがそれこそ溢れかえっている。清浄な風と水、輝く緑、郷に光満たす旭、燃ゆる夕暮れ、天涯に瞬く月と星。あげ出したらキリがない程には。かつては自分が愛で、酒の肴にした美しい風景。
 地上に出たが――それらに心奪われ、戻ってこなかったら?
 そう考えると勇儀は恐ろしいのだ。恐ろしくてたまらない。この子を手離したくない。けれどそんな願いは所詮、自分のエゴに過ぎなくて。
なにより、自身がそれを望んでいないのなら、送り出してやる他ないのだろう。

「――いいだろう。、お前さんの好きに生きな」
「……!
本当、ですか!?」
「ああ、ただし条件がある」
「条件…?」
「そうだ」

 きょとんと目を丸くし首をかしげるの愛らしさに、先程までの決心がぐらつきそうになったが、そこはぐっとこらえる。
 そんな動揺を誤魔化すためごほん、と咳払いすると、勇儀は双紅でを捉えた。そして挑戦的に口角を上げる。


「杯を持った私を、段幕勝負で倒せるようになったらな!」


 こうして、の段幕特訓の日々が幕を開ける。

110926

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