――愛してる。


なんて簡単には紡げない言葉だと、目の前で書籍の整理をしている女の後姿にロードは思う。
ここは時計塔の講師であるロードの執務室。女は、ロードの助手という立場だった。
かつて女とロードは――ウェイバー・ベルベットは、非常にそりが合わない、犬猿の仲という奴だった。出会いは、忘れもしない10年前。聖杯戦争の舞台として降り立った冬木の町で、自らのサーヴァントであるイスカンダルに連いてきたのが彼女だった。
なんでも前世ではイスカンダルの側仕えをしていた魔術師だったとか。曰く、王が病で床に伏した際、おぼろげながらサーヴァントとして召喚される様を夢に見たらしい。根性で冬木に転生し、前世の人格を覚醒させたと彼女は語った。その話にイスカンダルは呵呵大笑し、ウェイバーは呆れたものだ。そんなことがありえるものか、意図的であったならそれは魔法の域に達するのではあるまいか。こいつって実は相当な魔術師なのでは――と少しだけ懐いた憧憬の念も、すぐに消し飛ぶことになるのだが。
それからは、まぁ色々あった。はっきり言って仲は良好だったといい難い。むしろ印象は最悪。イスカンダルに心酔し崇めるのに対して、ウェイバーには辛辣な態度だったからである。
その豹変っぷりといったらなかったし、ウェイバー自身気が長い方でもないので激怒した。ボクはそいつのマスターなんだぞ!と声を張り上げれば、そんななよっちい魔術回路としょぼい魔力量でよくいう、なんて返されたりして。
当時、ウェイバーのなけなしの矜持を傷つけるには十分な暴言だった。
癇癪を起こすウェイバーを小馬鹿にし飄々とあしらう少女とのいがみ合いを、イスカンダルは楽しそうに笑いながら見ていた。

どうせライダーが勝ち抜き、聖杯を手にしてコイツは受肉する。
そしたらこの二人はずっとこんな調子なんだろうか。そう思うとうんざりしたが、何故だろう。そんなに嫌ではなかった。それどころかその輪に自分も入っていたいと、不相応だとわかりつつも密かに願いさえしていた。

けれど――ライダーは、敗退した。

夢に、生きざまに、覇道に。
イスカンダルという男そのものにウェイバーは魅せられた。
己の全てを賭してでも、同じものを見たいと思った。強烈に、鮮烈に。

それは矮小な身命を焦がすほどの願望だった。

巨大な現し身は喪ってしまったけれど、ウェイバーはその志しと命を魂に刻んだ。
そして理解する。
――彼女もきっと、同じだったのだろうと。
かつて大王との再会を切望した魔術師。その祈りは幾星霜を超え、冬木の地に舞い降りた。そして彼女はその悲願を果たしたのだ。
ならば自分もいつか――あの、雄大な砂漠と深い蒼穹がどこまでも広がるかの地へと。
少年は夢見た。迷ったり、自分はどう足掻いても魔術師として大成できないのではないかと苦悩することもあった。
少女は傍に立ち、少年を見守った。時にはちょっとした道標を示したり、叱責したり、言い争ったりもした。
気がつけば二人は固い絆で結ばれ、ウェイバー・ベルベットの人生において彼女は不可欠の存在となっていた。
かくして、ロード・エルメロイの名を襲名した折に、ウェイバーは彼女に大変お粗末かつぶっきらぼうな求愛をしたのだった。

そして今に至る。
時計塔の講師ウェイバー・ベルベット改めロード・エルメロイU世は妻帯者である。妻の名は。かつてかのアレクサンドロス大王に付き従った魔術師にして、ロード・エルメロイU世の助手である。
しかし情けないことに、ロードは愛を囁くことがからきし苦手だった。人生においての惚れたはれたを初めて意識したのが妻相手なので、恋愛経験値が果てしなく0という有り様だ。
そういう気持ちが、無いわけではないのだ。
傍にいてくれることが嬉しいと、ありがたいと、そしてその魂を愛しいと思う。
けれど言葉にしなければ伝わるはずもない。
これは怠慢ではないのか、と思い悩むロードに気付いたが、気遣わしげに覗き込んできた。

「なに、どうかした?そんな眉間にシワ三割増しで寄せちゃって」
「……別に、なんでもない」
「そ?ま、あんまり溜め込みすぎないようにねー」
「……心掛ける」

むう、と唸るロードに笑うと、は「ブレイクタイムにしますか」とティーセットを引っ張り出す。穏やかで柔らかな時間が流れる中、ぼんやりとを眺めるロードの口元は、自然と弧を描いていた。

胸に、滲む。

この熱を愛と呼ばずして、なんと呼ぶのか。

――」

名前を呼ばれが振り返る。と同時に、扉が無遠慮に開かれた。

「教授、師匠ー!ご機嫌いかがですかぁ〜!」
「あら、フラット」
「……!」

能天気な声と共に執務室へと入ってきたのは、ロードの最古参の教え子であり、専らの頭痛の種でもあるフラット・エスカルドスその人であった。ぶち壊されたムードに額を押さえ、眉間をピクピクと痙攣させるロードのひきつった表情に、この教え子が気づくはずもない。相変わらずへらへらとしまりの無い笑顔を浮かべている。
ちなみに注釈しておくと、教授はロードを、師匠はを指している。フラットの妙ちきりんな魔術指向を唯一良しとし、理論や術式の組み立てをが助言するからである。
ロードとしては余計なことを、の一言に尽きるのだが。

「一体何の用だ」
「えー?特に何もないですけど…あえて言うなら、お二人の顔を見にきたってところですかね!」
「帰れ!今すぐに帰れ!!」
「あっはは!別にいいじゃないそんな邪険にしなくても。フラットにも紅茶を淹れてあげようね」
「やったー!師匠、愛してる!」
「はいはいありがとう」
「……!、!〜っ!!」

ロードは絶句した。
自分が言えないでいる言葉をやすやすと口にするフラットと、笑いながらそれに礼を言うは適当にあしらっただけなのだが、この際それは関係ない。
とにかくその光景はロードにとって到底許せるものではなかった。先を越された悔しさや男としての沽券、なによりフラットへの怒りが込み上げて、元々丈夫では無いロードの堪忍袋の緒が切れた。

「フラット・エスカルドス!!」
「は、はいぃい!?」

突然叩きつけられた怒声にフラットの体が跳び上がる。

「ど、どうしたんですか教授そんな青筋なんて浮かべて…!?」
「どうしたもこうしたもないだろう、この前言いつけた論文の提出はどうした?」
「え、えーと、それは…」
「こんなところで油を売る暇があるんならさっさと仕上げてこい!!」
「失礼しましたぁっ!!」

あわてて部屋から飛び出していくお調子者の背中を、ロードが舌打ちと共に見送る。そんな二人のやりとりをさして気に止めるでもなく、暖めておいたカップに紅茶を注ぐと、は至って気軽にロードの前へと差し出した。

「はいどうぞ」
「……ああ」

激昂のあまりいつの間にか立ち上がっていたロードは、決まりが悪そうに執務椅子へと座り直す。

「きょうはエラくご機嫌斜めね?」
「………」

の問いには答えず、カップを口に運ぶ。まさか嫉妬したとは口が裂けても言えばすまい。
やはり今日はやめてしまおうか、とも思ったが、ここでやめるのも癪に触る。生来の負けず嫌いを発揮して、ロードは気持ちを改めた。
様子が変わったロードに、自らもティーカップへ口をつけていたが不思議そうな顔をする。そんな彼女を真摯に見つめ、拙く唇を動かした。


「? はい」

――I love you.

少し掠れたバリトンで紡がれた愛の言葉。
それは時計塔に学ぶ生徒の誰もが聞いたことのない声色だった。不機嫌さも厳しさも険しさも無い。ひたすらに真摯で、穏やかな。

はしばし唖然とした後――ぼっ、と耳どころか首まで赤くして、ロードから身体を背けた。

「な、な、なんっ、い、い、いきなり…!!」

裏返った声から激しい動揺が如実に伝わってくる。フラットに愛を告げられた時とはまるで別人ではないか。
いっそ言葉すらままならないにロードは目を丸くしたが、すぐにこれまた珍しく破願して席を立った。
柄にもないけれど、愛しい妻を抱きしめるために。

余談ではあるが、は前世一度たりとも恋をしたことがない。
そういった感情器官を無くしていたのか、あるいは自ら無意識に抑制していたのか。
そして今生にて彼女は初めて恋のなんたるかを、男と女の間に萌す愛を知った。相手はもちろんロード・エルメロイU世、いや、ウェイバー・ベルベットである。

いい大人が二人そろって初々しいにも程がある。

「ま、お二人が幸せならそれでいいんですけどねー」

完成間近だった論文を早々に仕上げて提出しに来たフラットはそう呟くと、僅かに開いた扉の前から身体を離した。大好きな二人の時間を邪魔する気は毛頭ない。
でも、いちゃつくなら鍵かけとくとか施錠の魔術とかしといたほうがいいんじゃないかなぁ。
思い立つなりくるりと執務室の方へ振り返ったフラットが、ボソボソと何事かを詠じる。外部からの侵入を阻む魔術である。内側から外へ出る分にはなんの影響もおよぼさないので、二人が気付く確率も低いだろう。腐っても天才である。

術の発動を確認し、今度こそフラットは部屋へと戻って行ったのだった。

20120710