謹謝 訪客叩門。

 その日も曹操は丞相府に出仕しておらず、自宅の固く閉ざされた門には避客稗がかけられていた。
 潮時だと感じた関羽は屋敷へ戻ると、召し使いたちに屋敷の清掃を命じ、期限を今日中とした。今晩、劉備のいる冀州河北への出立を決めたのだ。
 最後にもう一度、と関羽は曹操の元を訪れたが、やはり会えることはなかった。関羽は置き手紙をし、門前にて別れの挨拶をすませ、その場を去った。
 召し使いたちがあわただしくもくまなく、屋敷の中を掃除する。関羽はその横を通りすぎ、庭園にて空に昇りたる月を見上げていた。
 関羽はひそかに、ある人間の来訪を待っていた。おそらく来はしない。だとしても、待ちうる限界まで待つつもりでいた。いや、待ちたかった。

「……ああ、わしは一体どうしてしまったというのだ……」

 自らの状況に頭を抱える。威のことを思えば、どうにも落ちつかない心地に陥ってしまう関羽であった。
 じりじりと胸裡を焦がすもどかしさは、一体何事であろうか。胸に手をあててみれど、ざわめきはいっこうに止む気配を見せない。
 これではまるで、恋のようではないか。自分に男風の気があったのは衝撃だったが、こうなってしまっては認める他なかった。
 初めは、ただ奇異な身なりを見咎めただけだった。
 次に、ただならぬ出自を知った。
 ついには、その身をそばに置きたいと思った。
 どんなに醜くともかまわない。その忠節とひたむきな心根を、いじらしく思ったのだから。
 とは言えど、関羽が最も重んじるべきは義兄であり主君、劉備玄徳である。それはしかと弁えている。
 生まれた日は違えど死ぬ時は同じだと、桃園にて交わした誓い。皓々と白く柔らかな光を放つ月に、兄の姿を重ねる。
 今の世は闇だ。国は割れ、戦が起こり、人々は苦しんでいる。その闇を照らす光こそ、劉備の仁徳の光。
 主君が乱世を平定し、漢王朝が威光を取り戻せば、きっと威の志も叶いやすくなるであろう。
 一刻も早く御元に馳せ参じたい心と、この地で若者を待ちたい心の板挟みにあい、思い悩む。いつの間にか月も雲隠れしてしまった。関羽が深く溜め息をついた――その時。

「もし、関羽様」

 りんと芯の通った、女人の声がした。
 よほど忘我していたのだろう。庭にいつの間にか人影があったことに、関羽ともあろう者が気づかなかったのである。
 声のした方に目をやれど、月の恩恵がない今、はっきりと姿形を確認することは出来ない。
 それでも関羽には、そこにいるのが誰なのか――わかるような気がした。

「おぬし……威か?」
「…………いいえ」

 否定の言葉を吐いたその者が、顔を上げる。それを待っていたと言わんばかりに、雲が退いていく。
 月光が、降り注ぐ。

 果たしてそこにいたのは、男物の旅装束を身にまとった、男装の麗人であった。
 端正な顔立ちは表情ゆえか美女というより美少年然として、中性的な印象を受ける。清廉な光を灯した双眸が、まっすぐに関羽を見つめていた。

「私の名はと申します。しかし関羽様の知るところの威嵐脚でもございます……我が身は女人なれば、大義を果たせぬと性別を偽っておりました。欺いてしまったこと、申し開きのしようもございませぬ。
されどかような身でももしお許しくださるなら、家臣ともども御身にお仕えしたいと思い推参いたしました」
「おお……共に来てくれるか。
是非もない。この関羽雲長、喜んでそなたらを迎え入れよう。共に我が殿のもとへ参ろうぞ」
「ありがたき幸せにございます」

 関羽と、その前にかしずく
 この巡り合わせを祝福するかのように、柔らかな月明かりが二人を照らしていた。
 の形の良い唇が、重い荷を下ろしたかのような、安堵にも似た呼気を漏らす。

「これで……名を、返すことが出来ます」
「名を返す……?」
「はい……威嵐脚の名は本来、私に仕えてくれているあの男のものでございます」

 そしては語る。
 家には跡継ぎたる男が産まれず、養子として迎え入れられたのが威嵐脚であった。だがその後すぐに董卓によって一族は皆殺しになってしまう。を連れた威が逃げおおせたのは一重に、養子になってまだ日が浅く、周囲に知られていなかったためであった。
 一族再興を願いながら、女である身を呪って泣くに、威は言った。私の名を差し上げます、と。

 いくら家の養子になろうと、自分にはその血統が流れてはおりません。あなたが覚悟を持って立つというならばこの名を捧げ、悲願をなし得るためおそばで尽くします。
 それこそが私を養子として迎えてくださった、家への恩に報いる術……

「それからというもの威は陰日向に私を支えてくれました。あの者は私にとって半身のようなものです」
「……なんと、そうであったか。して、その威は今どこにいる?」
「はっ。屋敷の前にて待たせております。呼んで参りましょう」

 一礼し、身を翻すに向けられる関羽の瞳、その最奥。暗く燻るは悋気であった。
 致し方ないことだとわかってはいる。それでも、威との間に深く結び付いている絆を歯痒く感じてしまう。

 自分は違うと思っていた。だが所詮、関羽も人の子である。ゆえにその業から逃れることは出来ない――人とはなんと、欲深い生き物なのか。

「……そろそろ、旅の支度も整ったか……」

 苦々しさを押し込んで、関羽は屋敷の中へ戻る。今考えるべきは、奥方様を安全に劉備のもとへ送り届けることのみ。雑念は無用。

 こうして、決死の千里行が始まろうとしていた。




思いの外関羽からの矢印がはっきりしてた件
構想段階じゃ夢主→→→関羽だったのにッカシーナー

20130126


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