陳震によりもたらされた密書にて劉備玄徳の存命を知った関羽は、暇乞いをすべく曹操の元を訪れた。
 しかし丞相府には曹操はおらず、屋敷には避客稗がかけられていたため、まみえられぬ日が続いていた。
 この地を去ることを決め、あとは曹操に挨拶をするのみ。だというのに関羽を手離したくない曹操は居留守を決め込むばかり。
 その日の訪問も無駄に終わり帰路についていた関羽は、不意に威のことを思い出した。
 異様な見た目が気を引き、素性を知ることになった弓兵。非業の経歴を持つ威はそれでも一族再興を志し、今は一兵卒に身をやつしている。
 これもなにかの縁、去り行く前に一言伝えたいと思ったが、当然威が何処に住んでいるのか関羽には知るよしもない。さてどうしたものかと考え込んでいると、ちょうどよくそこに見知った顔が通りかかった。

「御免!」

 関羽が呼び止めたのは、威の家来であった。威とこの男が主従であることは、もちろん関羽は知らない。

「関羽将軍ではありませんか。拙者に何用でしょう」
「うむ、威の家を訪ねたいのだがなにぶん居場所がわからぬ。おぬしなら知っているやもと思い、声をかけたのだ」
「……威殿の家ですか。いかがなされました?」
「いやな、訳あってこの地を離れることになったゆえ、一言別れを告げたい」

 一瞬のうちに男は考えを巡らせる。はたして関羽を、主人のもとへ連れていっていいものだろうかと。
 男は赤兎馬に乗った巨漢の様子を見上げた。その裏に悪意が潜んでいないと悟ると、男は案内役を買って出た。

 こうして関羽が案内されたのは、粗末な民家であった。

「ここにてしばらくお待ちくだされ。若に客人の来訪を伝えて参りますゆえ」
「なに?するとおぬしは」
「はい。拙者は威嵐脚さまの家来でございます。では」

 一礼の後家来があばら家に入ってしばらくすると、威が姿を現した。鎧を脱いだ体躯はやはり頼りない印象を関羽に抱かせ、何故か不覚にもうろたえてしまった。
 そんな関羽の心中など露知らず、威は拱手した。

「"この地を離れられるそうですね"……とおっしゃっておられます」
「あ、ああ……」

 耳打ちされた威の言葉を、家来の男が関羽に伝える。関羽は己の奇妙な動悸を振り払い、成り行きを語ることにした。

「我が殿、玄徳様の居所がわかってな……この地を去ることになった。おぬしには伝えておこうと思い、こうして訪ねて参った」
「……"わざわざお越しいただき、お心遣い感いたします。劉備様が見つかって、本当にようございましたな"」
「うむ……」
「……"お二人が無事に再会できる日をこの威、及ばずながらお祈りもうしております"」

 顔も見えぬ。瞳も見えぬ。声すらもわからぬ。
 しかし威の真摯な言葉は他者の口頭を借りてなお、関羽の胸にしっかりと届いた。
 関羽は戸惑っていた。この若者を都に残していくことをとても名残惜しく思えてならない自分自身が、不思議でならなかったのだ。

威よ……もしおぬしさえよければ、それがしと共に参らぬか」

 だからそんな言葉をこぼしてしまった時も、その場で最も驚いていたのは関羽自身であった。
 突然の誘いに威も困惑しているのか、否とも応とも返答しない。
 つかの間の沈黙。先に口を開いたのは関羽だった。

「すまぬ、おぬしの志を知っていながら不躾であった……
だが先ほどの言葉に嘘いつわりはござらぬ。もしおぬしが共に来てくれるというなら、わしは喜んで迎え入れよう」

 そう言い残し、関羽は帰っていった。
 その姿を見送ったあと、威は弾かれたように家の中へと駆け戻り、伏せって肩を震わせた。
 その胸を責め苛むのは、狂おしいほどの歓喜と使命感であった。
 顔に巻いた包帯を濡らし、威はむせび泣いた。一族再興の大義と、個の願望。どちらを優先すべきかなど考えるまでもない。

「若……」

 苦悶する主人のあまりにも痛ましい様子に、家来の目にも涙が浮かぶ。
 本来ならなに不自由なく育ち、そして暮らしているはずだった。しかし乱世がそれを許しはしなかった。
 負うはずもなかった業を背負い、身に余る大義に殉じ。
 殺したはずの「己」が再び息を吹き返そうとするのを、必死に屠ろうとしている。
 主の心を思えばこそ、家来の男は胸が張り裂けるようであった。
 男はそっと、威の肩に手をおいた。

「真の大義とは、一体なんでございましょうや」

 なだらかな声音で、男が問うた。
 霧に迷った旅人を導くような、底無し沼に沈み行く者を引き上げるような、そんな慈悲の心を持って。

「一族の再興。それもまた道理でしょう。しかし、それよりも大事なことがあります。漢王朝への忠義を貫き、尽くすことです。
家は代々、漢王朝に仕えて参りました。たとえ没落しようと、あなたは家の人間です。よいですか、曹操は帝の威光を利用するだけでは飽きたらず、帝をないがしろにしている……このような人間の元にいることが、果たして義を全うしていると言えるでしょうか!?
対して劉備殿は遡れば中山靖王劉勝の庶子、劉貞の末裔……献帝によって漢の宗親と認められております。さらにはあの奸臣を討たんとする血判書にもお名前があったとか……なれば関羽殿の召集に従い、御元に馳せ参じることこそ、あなたの使命ではござらんか」

「……わた、しは……」

 まるで呪縛から解き放たれることを許すように包帯がほつれ、わななく口元があらわになる。

「もうよいのですぞ、威さま……いえ――さま」

 此処に至るまで、この娘にどれだけの苦難があったであろうか。
 家来の男の、困ったように眉の下がった微笑みは、ただただ優しかった。



続く
イェーイやっと夢主出せた!……長かった_(:3」∠)_
20130117


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