袁紹との戦は長引いた。 都の守りに不安を感じた曹操は、先陣を解き軍勢を引き上げた。 都へ戻った関羽は、件の顔を包帯で覆った弓兵を呼びつけた。かくして出仕した包帯の弓兵は筆と竹簡を持参し、直接口で受け答えが出来ぬ無礼を筆談にて詫びた。 「呼びつけてすまんな。すこしばかりおぬしのことが気になったのでな」 さらさらと弓兵が竹簡に筆を走らせる。 文面には"と、おっしゃいますと?"と書いてあった。 「いやな、こたびの戦場でのおぬしの働き、見させてもらった。派手ではないが腕は確かなもの。確実に急所を狙いうつさま見事であった」 "ありがとうございます。天下無双の豪傑にそのようなお言葉をかけていただき、我が身の誉れでございます" 「うむ、それでだな。おぬしの振る舞いや字を見ているとどうも一兵卒には思えぬ。もしや身分ある家の出ではないかと思い、名を聞いてみたくなったのだ」 ――しばしの沈黙が訪れた。 包帯のため、表情の機微をうかがい知ることは出来ない。 関羽が見守る前で弓兵は静かに字をしたため、両手でそれを差し出した。 書面にはこう記してあった。 弓兵は姓を(みょうじ)、名を威(い)、字を嵐脚(らんかく)と言った。 家は漢王朝に古くから仕える一門であったが、董卓の悪性時に当主である父南が謀反を企て、それが露見したがために一族郎党は皆殺しの憂き目にあったのだという。その中で跡継ぎである威が唯一難を逃れ、一族再興を胸に今は身を潜めているとのことであった。 "たとえ一族の再興が叶わなくとも、漢王朝のためにこの身命を尽くす思いでございます" 「そうであったか……同じ漢王朝の臣として、おぬしが志を遂げることを祈っておるぞ」 関羽の力強い激励に感じ入ったのだろう。威は目頭を押さえ俯いたが、すぐに頭を上げると固く礼を取ってその場から下がった。去り行く背は毅然としていながらも、どこか頼りなく見える。顔は見えなくとも、体格からしてまだ年若いことは想像に難くない。 本来であれば将として兵を率いている立場の人間だっただろうに、今では一介の弓兵。威の境遇にかつての主君を重ね、関羽はなにかしてやれることはないものかと思わずにはいられなかった。 とは言えど、自分もいつまでこの地に身を寄せているかわからぬ身。関羽にとって重んじるべきは、劉備玄徳に他ならないのだから。 「殿……一体いずこにおわすのか……」 溢した呟きは思った以上に寂寞をもたらし、関羽は物憂げに溜め息を吐き出した。 「若、ご無事でしたか」 住み処へと戻ってきた威を出迎えたのは、先日関羽に声をかけられた際一番に反応した、中年の弓兵であった。実はこの男家の家来であり、陰日向に威を支えていた。 威は家来に手招きし耳元にて、案ずることはない、と言った。 威が声をもって話をするのは、この家来相手の時のみであった。 「関羽将軍は立派なお方だ。武があり、智があり、そして義がある。よほど今の丞相よりも漢王朝に対する忠誠は厚かろう」 「それは拙者も存じておりますが……若、あなたは普通の身とは違うのですぞ」 「……わかっている」 威は家来から身体を離し、背を向けてしまった。 その胸には関羽への複雑な想いが揺れていた。 20130114 この後陳震(文官)が忍者のような動きで密書を届けに来るよ★ 戻る |