劉備玄徳の義兄弟であり勇猛名高い関羽雲長が曹操猛徳の元へ下って後、関羽は都に与えられた屋敷で玄徳夫人を守って暮らしていた。
 曹操は忠義に厚い関羽をいたく気に入り、ことあるごとに贈り物をしたり宴を開いたのだが、関羽の心が玄徳以外になびくことはなかった。それどころか賜った金銀財宝は全て玄徳夫人に献上し、唯一喜色を見せた贈り物は赤兎馬だけという有り様であった。そんな奥ゆかしい関羽の姿に曹操は一層に惚れ込み、家臣に欲したのである。

 袁紹との戦が起こったのは、そんな時であった。人はこれを官渡の戦いと呼ぶ。

 曹操の心尽くしに恩義を感じていた関羽は、手柄を立てて報いたいと考えていた。しかしそれはいざ劉備玄徳の消息が知れた時に、思い残すことなく立ち去るため。
 関羽を手離したくない曹操としては戦場に出したくない。だが敵の猛将、顔良の暴れっぷりに曹操軍は痛めつけられ、戦局は悪化の一途を辿るばかり。ついに都に待機していた関羽に出馬の命が届くことになる。
 ただちに赤兎馬にて戦地へと駆けつけた関羽は早々に顔良を討ち取り、曹操軍に参加した。対する袁昭軍に、探してやまぬ主君劉備がいるとも知らずに。


 さて、関羽は曹操より分配された兵士を整列させ、その顔触れをざっと見渡した。
 やはり正規の漢軍、訓練された兵士たちの面立ちは中々に頼もしい。しかしそのただ中、弓兵隊に異様な出で立ちを見咎めて、関羽は眉根を潜めた。

「おい、そこの弓兵」
「は、なんでございましょう」
「お前ではない。わしが呼んだのは、あの包帯のやつだ」

 関羽が指差す先にいたのは、顔全てを包帯に覆われた弓兵だった。包帯の弓兵は自分が呼ばれていることを知って、関羽の前まで参じて礼を取る。しかし声を発しない。

「貴様、その面妖な風体は何事だ。怪我人ならば前線から下がっておれ」
「………」
「どうした、何故なにも言わぬ」
「……僭越ながら、拙者がお話いたします」

 包帯の弓兵の変わりに前へ出たのは、先に関羽へ返事をした弓兵であった。

「この者は先の戦にて顔はただれ、喉はやけてろくに声を出すこともままなりませぬ。あまりにも醜怪な声ゆえ、耳にかければ将軍の気分を害されるやもしれぬと気にしておるのです。
しかし弓の腕は確かなものです。将軍のお力に比べれば微々たるものでしょうが、勝利に貢献したいのはこの者も同じ。どうかお見過ごしくだされ」
「ふむ……承知した。わざわざ呼び立ててすまなかったな。列に戻れ」
「はっ」

 二人は深々と頭を下げ、隊列へと戻っていった。
 顔良の弟である文醜が仇討ちにやってきたのは、それから間もなくの、雲の多い月夜だった。


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