おかしい、絶対におかしいと鍾会は思った。
 なにがおかしいと聞かれれば我が身である。を見ると疼く身体に他ならない。
 近頃、を見ているうちにどくどくと鼓動が早鐘をつき、しまいには下腹部が熱を持つようになってしまったのだ。その度に鍾会は動揺し、厠だのなんだのと嘯いて熱を鎮めるか慰めにいかなければならなかった。
 のことを考えるのも駄目だった。ましてや本人が接触してこようものなら、触れた瞬間に下布を濡らしてしまいそうになる。
 こんなことは初めてだった。自室で一人掌を見ながら、呆然とした。嫌悪感でいっぱいだった。
 鍾会はこれまで誰かに色欲を抱いたことがなかった。思春期にはありがちな、いやらしい妄想に耽ったこともない。むしろ他人と肌を重ねるなど考えたくもなかったし、第一そんなことをすればこの完璧で選ばれた無二の存在である自身が汚されてしまう。
 そんな風に生きてきたものだから、鍾会には今の状況が煩わしくて仕方がなかった。
 こんなことになったのはのせいで、何食わぬ顔をしておきながら妙な術でもかけているに違いない。そう断じて逆恨みを抱いていた鍾会はある日思い付く。そうだ、を他の将につかせればいい、と。そうすれば今より関わる機会も減るだろうし、この不愉快極まりない症状もじきに収まるだろう。早速明日司馬昭に願い出ることにして、鍾会は晴れやかな気持ちで眠りについた。

 は賈充の配下になった。の努力家ぶりもあり、すぐに馴染んでいる様子だった。元々賈充ものことは憎からず思っていたようで、あの感情が読めない薄ら笑いがふと和らいでいるのを見かけることもあった。司馬昭の影となり、彼がために暗躍する賈充を、その意を汲んでも懸命に支えた。
 お互いに向けあう特別な視線、賈充の柔らかな面差しと色づいたの頬。別になんてことはない光景のはずなのに、自分には関係のないことなのに、鍾会は無性に気にくわなかった。

 目がさめる。そこは自分の部屋だった。どうやら今のは夢だったらしい。嫌な汗がじっとりとまとわりついている。気持ち悪さに舌打ちした鍾会の胸には、どす黒い塊が重くのしかかっていた。
 脳裏に焼き付いた、見つめあう賈充との二人に言い知れぬ不快感がこみ上げ、鍾会はぎりりと唇を噛んだ。
 翌日、鍾会は司馬昭に配属変更の申し出をするのを止めた。
 症状は悪化するばかりだった。最近では体の異変に加えて、どうしようもない焦燥感に苛まれる始末だった。が他者と親しげに話している場面を目にするだけで、癇癪を起しそうになるのである。かといって傍に来れば、体がおかしくなる。気が狂いそうだった。
 そこで鍾会は答えを得る。そうだ、あいつさえいなければ何に悩まされることもない。消えてしまえばいい、殺してしまえばいいのだと。果ての分からぬ濃霧の中から抜け出せたような、安堵と快哉だった。

 かくして鍾会の讒言によりは処断された。鍾会を最も煩わせ、苦しめた女はこの世から消えてなくなった。視界の端にちらりとでも姿が掠めることもなく、名を呼ばれることもない。これでやっと鍾会は解放されたのだ。喜んだ鍾会だったがせいせいしたのは最初だけで、次第にいかんともしがたい喪失感に見舞われるようになっていった。
 誰に何を任せても、の仕事ぶりには及ばない。苛立ちはしたものの、それだけならまだよかった。しかし次第に、あの真面目な性格や自分へと向けられていた気遣い、嬉しいことがあった時に見せる無垢な童女のような笑みが、永久にこの世から失われてしまったことの重大さに気づいてしまった。
 清廉な気質の、しかし柔らかな女だった。手を抜くことを知らず、何に対しても全身全霊をかけるような、不器用な女だった。いつか、戦場が怖くないのかと聞いてみたことがある。僅かな嫌味を込めての問だった。怖くないと言うなら血に飢えた獣、怖いと言うなら臆病者だと罵るつもりでいた。
 しかしは、痛いほどに真摯な眼差しでこう言ったのだ。恐ろしいです。殺すかもしれない、殺されるかもしれない。しかし国が為、主君が為、養父の為、私は自らの意志で戦場に立つことを望みました。そうすることで乱世の終わりに少しでも貢献できるなら。殺すからには殺される覚悟もとうにできています。殺し合うことで時代が動くのが乱世でしょう。
 血に飢えた獣とも臆病者とも罵ることが出来ず、鍾会は口をつぐんだ。腹立たしさを覚えたのは、何に対してだったのか。とにかくはそういう女だった。そういう女だったのだ。
 鍾会は震えた。なんということを、取り返しのつかないことをしてしまった。恐怖と、激しい後悔に襲われる。だが一度失われた命は二度とは戻らない。これは太古から覆すことのできない理である。だから今更過ちに気付いても、死んだ人間はもう帰ってはこない。
 三国は愚か、地の果てまで、どこを探そうと、いない。
 何もかもが手遅れだった。鍾会は嘔吐した。そして慟哭した。
 そうだ、私は――

 弾かれたように飛び起きる。鍾会は寝台の中にいた。またしても夢を見ていたようだった。
 鍾会は双眸からみっともなくぼろぼろと涙を流しながら、口元を抑えた。夢と同じに吐きそうだった。あげくに動悸で体は震え、息がうまくできない。
「うっ、う…っ!」
 泣きながら、鍾会はを想った。そして、自分がに抱いていた感情がなんであるのかを悟る。
(そうか)

 私はを、愛していたのか。

 自分が母を慕うような愛ではない。父が母を求めたように、数多の男が女に抱懐するように、鍾会はへ懸想していた。
 鍾会は生まれて初めて、男と女の間に生まれる情を知った。
 朝を待ち遠しく思いながら泣き濡れる。早くに会いたい、顔が見たいとそればかりだった。
 夜が明け出仕した鍾会の身体から異変は消えていた。自覚したからだろうか。もうを見ていても、名を呼ばれても、鼓動がひどく高鳴るだけだった。他者と親しげに接しているのは、やはり気にくわなかったが。
 あの後一睡もできなかった鍾会の顔色は悪く、それを見たが心配そうに声をかけてくる。
「鍾会様、どこか具合が悪いのですか?顔色が優れませんが……」
「べ、別にどうってことないね」
「そうですか……最近どこか元気がなかったから気がかりで……本当に無理はしないでくださいね」
「……っ、ふん」
 鍾会がから顔を背ける。
 誰のせいだと思ってるんだ、とは言えなかった。だが、が自分を気にしてくれていた事が鍾会は嬉しくてたまらない。それはもう、自分の書いた論文を知識人に絶賛されたり、周囲に才能を持て囃されたり、手柄を立て武勲を上司に褒め称えられた時の比ではない程に。
 たった一人の女が自分を思いやってくれていることが、こんなにも心を踊らせる。
 とりあえず今は、むず痒いような感覚と緩みそうになる口元をおさえるのに専念しなければならなかった。

130412
しきちゃんがひどい話を書いたって相棒に話したら酷いのはお前だと罵られたでござるの巻き


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