妻を迎える、という鍾会様の宣言に、屋敷は騒然となった。 鍾会様はこの邸の主であり、姓が示す通りかの名門鍾家の生まれである。かくいう私は、この邸に仕えるしがない召し使いの一人だ。 鍾会様は……並外れた英知を誇り若くして官職につかれた優秀なお人なのだが、いかんせん性格に難があった。気位が高く、高飛車で、傲慢不遜。その気性で思ったことをそのまま口にするので、相手の不興をかってしまうことも多く、耐えかねた召し使いが何人もこの屋敷から去っていった。中には鍾会様自ら解雇した人間もいる。 私としても辛いことは多々あったのだが、給料はいいし人格はともかく肩書きの立派な方のお屋敷に仕えていると外聞もいいので、堪え忍べている。 そんなこんなで、ようやく仕事にも馴染んできた時分の私にとって、鍾会様が妻を迎えるというのはとんでもない大事件だった。 「鍾会様が見初めるなんてどんなご婦人なんだろう……やっぱりどこかの姫君なんでしょうか……」 「どうでしょうねぇ。さっぱりわかりませんわ」 「ああっ……!鍾会様みたいな性格だったらどうしよう!嫌味もつらみも二倍!?今度こそ私耐えられないかもしれません!」 「あなたにいなくなられては困ります。ほらほら、口よりも手を動かしなさいな。三日後には先方がいらっしゃるのだから、不備などあってはそれこそ大目玉よ」 「は、はい……」 てきぱきと準備を整えていくこの女性は、随分と前からこの屋敷に勤めている召し使いの先輩で、もはやその立ち振舞いは宮廷仕えの女官然としている。随分と世話になっているし、鍾会様もこの人には信頼を寄せているらしい。今回奥方様を迎えるにあたっての準備の指揮を全任されていた。 先行きが不安な私は、ついつい無駄口を叩いてしまう。環境が変わるというのは恐ろしいものだ。せめて鍾会様の奥方様となる方が、あの悪名高い劉夫人のようなお人でないことを祈るしかない。 溜め息をついていると、先輩から晴れの日を控えているのだからやめなさい、とたしなめられててしまった。 「ああ……でも、あの鍾会様がねぇ……」 「? なにか思うところでも?」 「ええ……鍾会様は潔癖なところがおありでしたから。以前働いていた子が鍾会様に色目を使ったことがあってね。そうしたら随分とお怒りになって、すぐさま追い出してしまわれたのよ。穢らわしい、二度と私の目の前に現れるなって言ってね」 「へ……へぇえ……鍾会様らしい」 「ええ。そんな風だったから、鍾会様は生涯独り身で過ごされると思っていたのだけれど……ああ、なんだか感慨深いわね」 その穏やかな笑みを見ていると、奥方様をお迎えするのも悪くないように思えてくる。 もちろん不安が消え去るわけではないんだけれど、私は気持ちを入れ直して準備に勤しむことにした。 そして三日後、数人の召し使いとささやかな嫁入り道具を伴って、その御仁はやってきた。 「今日からお世話になります、と申します。不束者ではありますが、何卒よろしくお願いしますね」 控えめにはにかみながらそう言うと、様が御辞儀をする。あわてて御辞儀をし返しながら、緊張していた私はなんとなく拍子抜けしてしまった。 どんな美女が来るのかと思いきや、奥方様となられる女性はなんというか…素朴な方だった。醜女ではないが、特段目を奪われるような美しさはない。顔立ちならば鍾会様の方がよほど整っているだろう。 ただ、所作から滲み出る育ちの良さが、彼女が良家の生まれであることを証明している。 しかしこんな平凡そうな女性のどこを、鍾会様は見初められたのだろうか……。無礼極まりないことは百も承知だが、そう思わずにはいられなかった。 様を出迎えた鍾会様は、召し使い風情に挨拶などいらん、といつもの調子で言っていたが、様は毅然と首を振った。 「いいえ、これからこの屋敷で暮らすのですから、皆さんに助けていただく場面がたくさんあるでしょう。これは礼儀です」 鍾会様に異論を唱える様に肝を冷やしたが、余計な心配だったらしい。 「……好きにしろ」 そっけない言い草ではあったが、その声色は普段より幾分も柔らかく聞こえた。 その後華燭を上げられて鍾会様と様はご夫婦になられた。というか様が、鍾会様が日頃目の敵にしているケ将軍の養女だと知った時は、召し使い一同度肝を抜かれたものだ。これは絶対におかしい、なにか裏があるのではないかと噂しあったが、今のところは不穏な動きもない。 何の打算も裏もないというのなら、この婚儀は途方もなくすごいことなのではないだろうか。祝宴の席で鍾会様が至極言いづらそうに義父上、とケ将軍をお呼びしているのを見かけた時は、酒瓶を乗せた盆をうっかりひっくり返しそうになってしまったほどだ。 嬉しそうに笑っておられたケ将軍と様のお顔を、私はきっと一生忘れることはないだろう。 様が嫁いでこられて、屋敷は変わった。 まず、屋敷の空気。以前はどこか冷めていて、ぴんと張りつめた氷の糸のようなものがあった。主の機嫌を損ねては大変だと誰もかれもが鍾会様の顔色を窺っていたし、遠征からご帰還なされた際などは息が詰まるような心地だった。それが今ではだいぶ和らいだのを肌で感じる。 なにより、鍾会様の人柄が以前と比べて柔らかくなった。鍾会様が私達に声を掛けるのは、用件を言い渡すか叱責する時だけだったのが、今は労いのお言葉をかけてくださるようになったのだ。これはすさまじい変化である。 ああ、鍾会様は本当に様を愛しておられるのだなと思った。此方が狼狽えてしまうくらいにぶっきらぼうでも、様を呼ぶ声、様に向ける眼差し、全てがそれを雄弁に物語っていた。 様は確かに美姫ではない。殿方を魅了するような色香もお持ちでなかったが、しかし心根が素直で優しくかつ真面目で、何事に対しても懸命な方だった。そういうところに鍾会様は惹かれたのだろう……いや、正直よくわからない。鍾会様の感性は常人とかけ離れていらっしゃるから。 「ああ、でも鍾会様が奥方様に選ばれたのが様で本当に良かった」 早朝。 調理場で朝餉の支度をしながらしみじみとそう呟けば、先輩はそうね、と同調で返してくれた。 「だけど最初、食事の支度を手伝うと申し出ていただいた時は驚いたわねぇ」 「ええ、もう私必死になって丁重にお断りしましたもの。そんなことをさせたら私達が旦那様よりお叱りを受けてしまいますーって言って」 「ふふ、そうだったわね。そのうち家内のことは取り仕切っていただくことにはなるでしょうけど」 「私としては、朝鍾会様を起こしてもらえるだけで充分助かりますけど……寝起きが悪いからおっかなくって」 苦笑いしつつ、出汁を掬って味見する。うん、こんなもんでいいだろう。 「じゃあ私、そろそろ寝所までお声をかけに行ってきますね」 「ええ、お願い」 彼女に後を任せて厨房を出ると、外は小雨が降りそぼっていた。道理で薄暗いはずだ。私達が調理を始める前は曇っていただけだったのに。 雨が降っているため少し冷えるが、それでも凍てつくような寒さはもうない。春が来たんだなぁ、と思って、はたと気付く。 あぁ、奥方様は――様は、私にとって春のようなお人なのだ。 かつての鍾会様の行動理念や価値観に、およそ人情のようなものはなかった。他人がどうなろうと構わない、そういう態度が普段から透けて見えていた。 己の栄達のみを重視して我が道を突き進む、その固くなな理念を例えるなら、凍てついた氷塊だ。そこにおよそ人としての温もりなど一片も有りはしなかった。 そんな鍾会様の心の氷を、様はとかしてくださった。もちろんまだ完全に、というわけではないだろうけど、いつかは。 薄ら明かりに照らされる庭の椿を横目にそんなことを考えながら、私はお二人の部屋へと回廊を進んだ。 20130407 ある召し使いと主人夫婦。 劉夫人は袁紹の奥さんのことです。こわいこわい 戻る |