鍾会士季は驚愕していた。 ここまで驚愕したのは、この世に選ばれた者として生を受けて以来初めてではないだろうかと、それほどの衝撃だった――いや、そんな言葉で語れるものではない。筆舌に尽くしがたいとは正にこういうことを言うのだろう。 鍾会は、猫になっていた。 (なっ…何故こんなことになっている……!?) 鏡に映った自身の変わり果てた姿に、まず抱いた感想はそれだった。本来の頭髪と同色の赤い癖毛、長い尻尾。今の鍾会は、実にすらりとしなやかな肢体を持つ、美しい成猫だった。 鍾会は困惑と混乱極まる頭で、それでもなんとか記憶を辿る。自身の執務室にて書簡を確認していた折、この陽気にあてられてあろうことか転寝をしてしまったのだ。そして目覚めたら、こんなことになっていた、と。 状況を整理してはみたものの、我が身に起こった異変の説明になるどころか、手がかりさえ掴めない。 鍾会が愕然としていると、入室の許可を窺うために戸を叩く音が聞こえてきた。 (!! 誰だ!?この姿を見られるのは不味い……!!) 「鍾会様?いらっしゃらないのですか……?」 かくして入室してきたのはだった。その手にはいくつかの書簡が抱えられている。この場にいるはずの上官の姿が見当たらないことを不思議に思い、きょろきょろと周囲を見回している。 咄嗟に物影に身を隠した鍾会は、その動向をじっと覗き見る。そんな視線に気付いたのだろうか。不意に、が鍾会の方を向いた。 「あっ……猫……?」 (しまっ……) 警戒を露にする猫が、まさか自分の上官だとは夢にも思うまい。 じり、と後ずさる鍾会に向かって、が歩み寄る。 「大丈夫、なにもしないよ。こちらにおいで」 は怯えさせないようにとしゃがみ、手招きしてくる。そう、鍾会には向けられたこともない、優しい声音で語りかけながら。 (……普通、猫ごときに話しかけたところで言葉を解するものか……馬鹿馬鹿しい) 「あっ」 つん、とそっぽを向いた鍾会にが落胆の声をこぼす。それが哀れだったので、あまりにも哀れだったので、仕方なく、本当に仕方なく、鍾会はの前まで歩み出た。の顔に、たちまちに喜色が浮かぶ。 「わぁ……っ、本当に綺麗な子だね、お前」 気安く頭を撫でようと伸ばされた手に威嚇しようかとも思ったが、やめた。そんなことをすればこの女がまた、いともたやすく意気消沈してしまうのが目に見えていたからだ。 (私の器の広さに感謝するんだな) 頭を撫でられ、顎をくすぐられながら、鍾会はそんなことを考える。喉がごろごろと鳴るのはこの身体の仕様であって、決して気持ちいいからではない。そう自分に言い聞かせて矜持を保とうとするが、知らずうちに尻尾が揺れてしまっていた。 「ふふっ、可愛いなぁ。お前どうしたの?こんなところに入り込んじゃ駄目だよ……あ、それとも鍾会様が連れてきたのかな……どうだろう」 鍾会が我に返るとの腕に抱かれていた。今までないくらい至近距離に嬉しそうなの顔があって、思わず固まってしまう。いやそれよりも、この、柔らかい感触は。 (む、む、む、胸……っ!?) 戦場では鎧を纏っているも、平時の宮中では鍛錬の前後でもない限り外している。故に衣ごしに伝わってくるその感触に、鍾会は思わず暴れた。 「ああっ!?急にどうしちゃったの!?いたっ……!」 の腕から飛び降りて振り返れば、が左手を押さえていた。推測するに自分の爪が掠って傷でもついたのだろう。 (あんな……っ、私にあんな不埒な真似をしたんだ、当然の報いだね) 「いつつ……苦しかったのかな……?ごめんね、抱き方が下手で」 謝りながらほほ笑むは、逃げられたためか少し寂しそうだった。 馬鹿げている、と心の底から思う。たかたが猫風情に、そこまで一喜一憂する理由がわからない。わからないが、しかし。 鍾会は回廊へと飛び出した。 「あ、猫……おいでおいで、……行っちゃった……」 たまたま回廊を通りかかった鍾会は、庭に降りたが猫につれなくされて肩を落としているのを見かけた。 あんな気まぐれで薄情な毛玉のなにがいいと言うのか。鍾会は理解に苦しんだ。そもそも鍾会は選ばれた人間、のような凡俗とは違うので、当たり前と言えば当たり前なのだが。 下らない、と止めていた歩みを再開しようとした時、の声色が変わった。 「わぁっ……子猫もいる!」 先ほど行ってしまったと思われた猫が、子猫をひきつれて戻ってきたのだ。恐らく餌をねだってのことだろう。人馴れしている様子からすると、日ごろから女官あたりに餌をもらっているのかもしれない。 それでもは破顔し、嬉しそうに猫と戯れている。 鍾会はしばらくその光景を眺めていた。 その後執務室に戻り、書簡を開いて字を辿っていた時も、猫と戯れていたの笑顔がどうしてか頭から離れなかった。胸に渦巻く感情がなんなのかは知らない。 そうしている間に、鍾会は午睡へと引き込まれてしまったのである。 「先日鍾会様のお部屋に猫がいたのですが…ご存知ないですか?」 「……知らないね」 「そうですか……」 目に見えて気落ちするに、鍾会はふん、と鼻を鳴らす。 猫になってしまった鍾会は、執務室を飛び出してしばらく身を潜めているうちに無事元の姿に戻ることが出来た。あれは夢だったのではないかとも思ったのだが、の左手に走った引っ掻き傷に、まざまざと現実を突きつけられた。 あのような面妖な事が何故起きてしまったのかは、未だわからずじまいだ。様々な文献を調べはしてみたのだが、結局なんの記述も見つけられなかった。あの日以来猫になってしまうこともなく、鍾会はもう考えることをやめた。 「おい」 「? はい」 鍾会が懐から貝とじの容器を取り出し、に投げ寄越す。 「あの、これは……?」 「傷薬だ。塗っておけ」 「あ……ありがとうございます」 頭を下げるから目を逸らす。そのまま鍾会が黙っていると、早速貰った薬を塗っていたが話しかけてきた。 「ここにいた猫なんですが、鍾会様の髪をそのまま毛並にしたような猫で…… そうそう、ちょうど鍾会様の後ろ髪が尻尾になったみたいな子で、本当に可愛かったんですよ」 「なっ……!?」 「どこを探しても見当たらなくって……どこに行ってしまったのか……」 残念そうに呟くが窓の外を遠望する。よもや探している猫がすぐそばで狼狽えている男であろうとは、やはり夢にも思わないのだった。 20130402 原因?世の中には説明がつかないこともありますよHAHAHA 走ってるうちに虎になる人もいるぐらいですしおすし 戻る |