[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。 ひらひらと翻る碧。 九寨溝に浸して染めたのかと思わんばかりの外套の色。 鋼と血と砂埃でけぶる錆びた戦場で、それはあまりに美しく、そしてあまりにも鮮やかに映えていた。 「……鍾会様」 「なんだ?」 「……あ」 戦を終え、拠点へ帰還する道すがら。 不意に口をついて出てしまった声を聞きとがめて、前方の鍾会様が振り返る。 当の私はと言えば、無意識に鍾会様の名前を口走ってしまったことと、なによりそれを聞かれてしまったことが無性に恥ずかしくて、つい顔を伏せてしまった。 何故私は、今、鍾会様を呼んでしまったのだろう。考えてみれど、解は浮かんでこない。 ますますもって混乱していると、鍾会様が訝しげに問いただしてくる。 「おい、なんなんだ。人の名を呼んでおいてだんまりか」 「あ、も、申し訳ありません!」 「……言いたいことがあるなら、さっさと言え」 憮然とした声音に焦りが募る。早く答えなければ、この気難しい、もとい一癖も二癖も性格に難のある上官の機嫌は、いとも簡単に損なわれてしまうだろう。 しかし返すべき答えが無い。 がちゃがちゃと兵士たちの鎧があちらこちらで音を立てている。ああ、どうしてさっき私の声はこの音に紛れてくれなかったのか。今更口惜しく思っても、どうしようもないことだった。 「まさか貴様、よもや具合が悪いなどと言い出さないだろうな」 「あ、いえ、それは違います」 「ふん……ではなんだというんだ。早くしろ」 ああもう、どうしてこの人は言いたくないならいい、とか、また後で聞く、とか、そういう気の利いたことを言ってくれないのだろう。 利己的で、自己中心。今更だってわかっているし諦めてもいるけど、こういう時はやはり恨めしい。 私は観念して、ありのままを伝えることにした。 「……特に意味は、ないんです」 「はぁ?」 「ですから、特に意味や用事はないんです。……その、戦場で鍾会様の外套があまりにも美しく鮮やかに見えたので…… そのことを考えていたら、ついお名前を呼んでしまっていたんです」 自分の行動を言葉にしてみて、改めてなにをしてるんだろうと我ながら情けなくなる。 下らない理由でさぞかし鍾会様もご立腹だろう。恐る恐る顔を上げた私は、しかし予想外の光景に唖然としてしまった。 怒るでもなく、あざ笑うわけでもなく。鍾会様は、呆気にとられたような顔でこちらを見ていた。いつも端整な面立ちに貼り付けられている、斜に構えたような厭味ったらしい表情が抜け落ちているせいで、常よりどこか幼い印象を受ける。 「あ……あの?鍾会様?」 「……っ!き、き、麟伶貴様!!突然意味の分からないことを言うな!!呆けていたからどこか具合が悪いのかと心配したじゃないか!!」 「え?」 「ぐっ……!違う!!今のは違うからな!!勘違いするなよ!?副官であるお前が負傷すると私の名に傷がつくんだ!! な、なんだお前ら、なにを見ている!!くそっ、不愉快極まりない!!ええいどけっ!!」 白皙の肌を一気に耳まで赤くすると、鍾会様は癇癪をおこしたようにまくしたてて、足音荒く行ってしまった。呆然と立ち尽くす私の顔を、通過していく兵たちがなんだなんだと覗き込んでいく。がちゃがちゃと絶え間ない音に囲まれていた私は、唐突に気づいてしまった。 漏らした自分の声は、鍾会様を呼んだあの時の声は、口をついて出たものだから決して大きくなかったはずだ。この鎧が擦れ合う大合唱にかき消されてしまうのが普通である。 でも鍾会様は、なんだ、と私を振り返った。 それは、私の様子を気にかけてくださっていた何よりの証拠ではないのか―― 「……!!」 顔が熱い。 色鮮やかな外套はすでに視界にはなく、かわりに秀麗な眉目をことごとく染めた朱色が、脳裏に焼き付いて離れなかった。 20130320 悠さまに出された宿題。 戻る |