鍾会は戦慄していた。己の心に、その有り様に、半ば呆然とすらした。すぐそばには他者の温もりがある。いや、もはや腕の中に。温もりは纏う鋼を、革を、衣を、皮膚を越えて心臓へと集まり、熱を生む。そんな変化が恐ろしく、今すぐにでも腕の中の人間を突き飛ばし逃げ出したい衝動にかられるのに、体は石化したように動かなかった。 鍾会は反乱を起こした。不穏な企みを察したに諌められたが、これを拘束して幽閉。密かに燻っていた野望が一気に燃え上がり、鍾会を反乱へと駆り立てた。 しかし反乱は失敗に終わる。隠居していた司馬懿と張春華によって、鍾会はあえなく鎮圧されてしまったのだ。処分は司馬師、司馬昭兄弟へと委ねられることとなる。 そうして鍾会と反乱に加担した一派の処遇を決める詮議の最中、鍾会を庇ったのがだった。 「確かに鍾会様は咎を犯しました…しかし鍾会様を止めることの出来なかった私にも責はあります。それに鍾会様は才ある御方……必ずやその働きは司馬一族の繁栄に貢献するでしょう」 「ふむ……お前の言うことにも一理ある。だが罰無しでは他の者に示しがつかぬ」 「重々承知しています。それならば……どうか私の首でお許しくださらないでしょうか」 「なっ……!?」 ためらいもなく言い放たれた言葉に鍾会は耳を疑った。取った行動を考慮され一切の罪を免れたが、自ら罰を賜ろうと進み出ているのだ。 司馬師は興味深そうに、跪いているを見下ろしている。 「ほう?何故命を差し出してまでこの逆賊を庇う?好いているのか」 「……もちろん、情はあります。ですがそれ以上に我が国がため、ひいては司馬師様の天下のために必要な人材と思えばこそです。 私ごときの命では足りないことも承知しています。 ですがどうか、何卒お聞き届け願えないでしょうか」 「……面を上げよ」 司馬師に命じられて、平伏していたが顔を上げる。 真意を測るように、司馬師の双眸がを射抜く。その眼光はあまりにも研ぎ澄まされていて、なにもかもを見透かしてしまいそうなので、司馬昭などはこの視線が向けられるのを苦手としていた。しかしは微塵も怯む様子はなく、真っ直ぐに司馬師を見つめていた。司馬師が剣を抜き、喉元に切っ先を突き付けても、それは変わらない。代わりに鍾会の背を冷たいものが駆け抜けていく。 「その覚悟は本物か?」 「はい」 「どんな辱しめを受けようと意思は変わらぬか」 言いながら、司馬師の剣がの襟元をひっかけ、そのまま服を下に裂いていく。胸元が露になった。それでもは微動だにせず、はい、と答えた。 刃が皮膚を薄く切り、なだらかな谷間にぷくりと赤い珠が生じる。それが弾けて垂れたのを目にした刹那、耐えきれなくなったのは鍾会だった。 「やめてくださいよ!!逆賊はこの私でしょう!?そいつを殺してなんになるんというんです!?」 「……これはこの者が自ら望んだことだ」 「そうそう。お前は黙ってろって」 後ろ手を縛られ自由のきかない身で足掻く鍾会をあしらい、司馬兄弟はすぐさまに向き直る。は全てを受け入れているらしく、鍾会の方を見ると微かに表情を綻ばせた。血の気が引いていく。 「やめろっ……やめろ!!」 「やめてほしいか?」 さっきからそう言っているというのに、確認するように司馬昭が問うてくる。だが体裁を取り繕っている余裕などない。鍾会は何度も頷いた。 「ではやはりお前が贖うか?」 「司馬師様……!」 「、今私は鍾会に聞いているのだ。お前は黙って見ていろ。 当然といえば当然だが鍾会、お前が贖うか」 「……ええ。あんたの好きにしてくださいよ、もう」 項垂れる鍾会に、司馬師が口角を上げる。 「ならば二度と司馬一族に逆らうな。二心を抱くな。私や昭のために力を尽くせ。」 「………は?」 「それと降格、減俸で今回だけは許してやろう。特別にな。 だが、もしまた叛いた時は……目の前でを辱しめて殺す。お前も易々と死ねると思うなよ」 言いながら剣を収めて颯爽とその場を後にする司馬師に司馬昭も続く。ありがとうございますと女の声を背に受けながら、彼らは去っていった。 捕縛を解かれ、鍾会をはじめ謀反に加担した者たちは晴れて自由の身となった。 このような軽度の処分は極めて異例のことだった。謀反を企てながら成せず、もし相手がかの武帝曹操であったなら、一も二もなく死は免れなかっただろう。 前を正したは呆然としている鍾会へ拱手すると、踵を返して去っていく。 咄嗟に鍾会はその背中を追い掛けた。 「……!」 引き留めるために呼んだ声は、自分で驚くほどに切実な響きを帯びていた。わずかばかり怯んだものの、構ってなどいられない。呼びかけに応じて振り返ろうとしていたの腕を掴む。あとの行動は、ほぼ自動的であった。自分自身でさえ、一連の所作が何故かひどく緩慢に見えたのだ。 「……!!」 息を呑んだのは、鍾会とのどちらだったか。或いは双方だったのか。 鍾会はその腕の中にを抱き寄せていた。 こんなのは嘘だ、と叫んでしまいたかった。 衝動のまま掻き抱いたその温もりがあまりにも心地よく、無残にも鍾会の全てを壊していく。 抱いていた野望も、栄達への渇望も、なにもかもをどうでもいいと思わせる。全てを手に入れる、それが自分の願いだったはずなのに、たった一人の人間が生きて腕の中にいるというただそれだけのことが、こんなにも胸の内を満たしてしまう。 「しょ……鍾会様……」 戸惑う声にうろたえる。 自身の根幹を揺るがされる恐怖に耐えかねて、鍾会は腕の中のものを突き飛ばそうとした。突き飛ばして、がむしゃらに走って、とにかくこの温もりから逃げ出したかった。間違いなくそう思うのに、身体はいうことをきかないばかりか、いっそうに抱く力を強くする。そして理念は瓦解していく。選ばれし特別な存在だった自分が、凡庸な人間に成り果てていく。 全て、などいらない。 たった一人、この女がそばにいるなら、共に生きる世のため誰かの下に甘んじてもいいと。 慄く鍾会は、そっと抱き返す力を感じた。女の手が壊れてばらばらになった鍾会を凝結する。凝固させてしまう。 そこにはもう栄達への野望を燻らせる男はおらず、込み上げる愛しさに逆らえぬ男がいるだけだった。 鍾会は泣いた。を抱きすくめたまま、みっともなく泣き咽んだ。心のどこか、冷静な部分が何故自分が泣いているのかを考えていたが、感情がない交ぜになっていて判然としない。 に何事もなくて嬉しいのか、ずっと信じて生きていた概念が崩壊して悲しいのか。 よくわからなかったが、背中を擦る優しい感触に一層泣けて仕方なかった。 「兄上も人が悪い」 二種類の足音が響く回廊。 司馬昭が前方の兄へ悪戯っぽく話しかける。 「最初っから鍾会の奴を殺すつもりなんてなかったんでしょう?」 後ろ頭で手を組んで、斜め後ろから秀麗な横顔を窺えば、肯定を示すかのように薄い唇が弧を描いた。 「今の魏で司馬家に逆らえる者はもういまい。それを他の者に知らしめるためにも、今回の謀反は調度よかったな」 「殺すより生かして利用した方がいいですもんね。生かしてやった奴らも温情に感謝して司馬家により一層尽くすでしょうよ」 「まあ、正直鍾会の処遇は最後まで悩んだのだがな……妙に気位が高い故、いつ反逆を企むとも限らぬ。 しかし、あやつは思わぬ伏兵であった」 頑として態度を改めなかった鍾会が、の登場でひどく取り乱したのだ。唯我独尊の男だとばかり思っていたが、そうでもないらしい。あの娘を使えば手玉に取ることもそう難しくないだろう。 (、か……) 立場の違い故、言葉を交わした記憶はない。 あまり目立つ存在でもなかったため、遠目に見ても気にとめたこともなかった。先刻のやり取りで初めてまともに顔を見たという有り様である。 (妙な娘だ) 表にはおくびにも出さないが、司馬師は内心驚いていた。 鍾会を庇って進み出たの瞳。そこに見出だしたのは鍾会への恋着、ましてや自分への恋慕などでは決してなく――司馬子元への、ひたむきな忠心だったのである。 あの娘は鍾会が司馬師が天命を掴むに真実必要な人材であると信じて、命を捨てる覚悟を以て嘆願していたのだ。 「ふっ……」 「? 兄上?どうかしたんですか?」 「いや、なに……私としたことが忠臣に気付くのが遅れたらしい」 「はあ……」 上機嫌な司馬師に司馬昭が首を傾げる。 その足で司馬兄弟は父母の元へと報告に向かった。 130525 前にmemoにupした文に肉付け?してみました。夢主は司馬師の王の器に見いられてます。 戻る |