じわり、と意識が滲み出す。 がいやに重い瞼を押し開ければ、見慣れぬ場所が視界に広がった。訝しく思い、何度か擦った目を開ききると、やはり自分は見知らぬ場所に、いや、見知らぬ部屋の寝台にいた。状況把握のため体を起こそうとすると、痛みが走った。左肩から右脇にかけて包帯が巻かれている。それでも寝台から降りようとして、止まった。いや、止まらざるをえなかった、と言うべきか。 ジャラ、と金属が擦れあう音と冷たい重みがする。足、左足から。 かけ布を勢いよくめくりあげれば、そこには鎖つきの鉄枷がはめられた己が左足があった。 驚愕に嫌な動悸がおこる。必死に記憶を反芻する。 そうだ、戦。 戦があったのだ。魏軍の兵として、正確には鍾会軍の副将としても武器を持ち、戦場に立った。 そして、敵将により傷を負い――後はもう、覚えていない。 となると、自分は捕虜となり敵地に連れてこられた可能性がある。それにしてはやけに厚遇な気はするのだが、不審なことに変わりなく、警戒を解くには心許なかった。 身を固くしていたその時、この四角い空間をただひとつ外界につなぐもの――扉の方から、がちゃん、と物々しい音がした。 「目が、覚めたか……!」 現れたのは鍾会だった。の姿を見るなり、目元を緩やかに綻ばせる。いや、それはともすれば泣いてしまいそうな顔だった。 はそんな鍾会を半ば呆然と見上げ、我に返る。 「鍾会様……あの、私は」 「戦場で傷を負って以来昏睡していたんだ。もう半月になる」 近寄る鍾会は手に持っていた桶を机に置くと、寝台に腰かけた。向けられる眼差しが鍾会の気質に似合わずまっすぐに優しげで、それがの心をざわりと撫で上げる。 不快に早まる鼓動は、本能が告げる警鐘だった。 「そうだったんですか…では、あの、――この足枷は何ですか?それに鍾会様が入る時に外で錠の音がしました。一体どうして」 「どうしてって、わかりきったことじゃないか。私がいない間に、お前がいなくなっては事だからな」 「――え」 鍾会の言葉の意味が、よくわからなかった。本当に、これっぽっちも理解できない。鍾会は不自然なほどに柔らかく笑んで、呆けているの頬へ手を伸ばす。 「お前をもう二度とここからは出さん。誰にも会わせない。 心配するな。お前はこの私が守ってやろう」 のものよりいくらも美しい指が、頬を撫でる。慈しむよう、確かめるように輪郭を滑って、鍾会は眉を潜めた。 「やはり肉が落ちているな……なにが食べたい」 「え、あ、あの」 「二胡ならばそこに置いている。鎖も扉の二尺手前までなら届くようにしてあるからな。ああ、着替えはあの箪笥の中だ。 まだろくなものは食べられないだろう?粥と桃でも持ってこよう」 「鍾会様!!」 たまらず語気を荒げて名を呼んだ。当の鍾会はきょとんとしている。 「何故――何故こんなことをするんですか。足枷を取ってください」 それは至極当然な要求だった。が強い瞳で鍾会を見据える。鍾会はしばらくぼんやりとその瞳を見返していたが、ふらりと病人のような動作をしたかとおもうと、いくらか細くなってしまった肩をだしぬけに掴んだ。 「駄目だ」 「うっ……痛……っ!!」 「駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ!!お前を失ったら私はどうなる!?どれだけ苦しむかお前にはわからないだろう!!わからないからそんなことを軽々しく口に出せる!!私の奥ふかくに入り込んでおいて私を置いて死ぬなど絶対に許さない!!許さないからな!!」 「ひ……っ」 「お前を守らなければならないんだ、私は!!」 の肩に鍾会の指がぎりぎりと食い込んでくる。狂ったようにまくしたてる鍾会の様子は常軌を逸していた。正気の沙汰ではない。美貌は歪み、見開かれた眼は血走っている。 恐怖に身を竦ませていると、突如きつく抱き締められた。塞がりきっていない傷の痛みが明滅する。鍾会がひどく震えていることに気付いたが、もはやどうすることも出来ない。 なされるがままの耳元に、死ぬな、と声が吹き込まれたが、はただただ慄くばかりだった。 130503 戻る |