澄み渡る春の青空を見上げ、が表情を綻ばせる。 「わぁ、いい天気……」 雲は点々と散らばり快晴とは言えなかったが、風は暖かく陽気もいい。今日は久方ぶりの休日。何をしようかと考えていただったが、この晴天を見て思い付いた。 「そうだ、遠乗りに行こうかな!」 ぱん、と小気味良い音を鳴らして手を合わせると、はそう言って瞳を輝かせた。 が魏に仕え、鍾会の元につくようになっていくらかたったが、実は馬に乗れるようになったのはつい最近のことだった。それもそのはずで、仕官するまでは馬を駆る機会がなかったのだ。武芸の鍛錬は許してくれた召使いの老婆も、乗馬となると流石に駄目だと言ってきかなかった。そのため訓練が出来なかったのである。 しかし念願かなって軍に迎えられ、いざ戦場に出るにあたって、乗馬の技術はやはり必要なものであった。武の腕を見込み、いつかは昇任させる腹づもりの司馬昭からの勧めもあって、は騎乗の訓練を始めることになった。 それまで馬という生き物とあまり関わりなく生きてきたである。執務や鍛錬の合間を縫っては厩舎へ行った。慣れないことだらけで大変な思いも多々あったが、持ち前の辛抱強さでなんとかものにすることができたのがつい先日。乗りこなせるようになりたての今、馬上で感じる風や疾走感が楽しくてたまらない。 そうと決まれば早速、とは身支度を整え、栗毛の愛馬の元へ向かった。 ごうごうと風が吹きすさび、大粒の雨が横殴りに降る。ひどい荒れようの天気を尻目に、府庁に出仕していた鍾会は使いの者が戻ってくるのを待っていた。言いつけた用事は、の呼び出し。休みなど関係ない。呼びつけて、兵法書でも読ませようという腹づもりだった。要するになんだかんだと理由をつけて側に置いておきたいだけなのだが、にとっては迷惑極まりない話である。こんな嵐の中、そんな理由で使いに出された人間も災難だが。 さて、災難にあった使いの者がびしょ濡れで戻り、扉の外から鍾会に声をかけてきた。 「失礼いたします鍾会様」 「御苦労。それでは?」 「それが……朝から遠乗りに出られたそうなのですが、この嵐になり、馬だけ戻ってきたと召し使いの者たちが慌てふためいておりまして……」 「何だと!!?」 弾かれたように鍾会が立ち上がる。その勢いでかけていた椅子は後ろに倒れてしまった。 分厚い雲に覆われた空は暗く、稲光が白く瞬いた後、本日何度目かわからない轟音が大気を震わせた。 「くそっ……!」 「鍾会様!?どちらに行かれるおつもりですか!」 「わかりきったことを聞くな!を探しに行くに決まっているだろう!!」 「危険です!せめて嵐が収まってから、他の方にも助勢を仰いで」 「うるさい!!私は行く、助勢はお前がケ艾にでも頼んでおけ!」 「鍾会様!!」 矢も盾もたまらず、制止の声を振り切って鍾会が飛び出す。 予想以上に視界は悪かった。どしゃ降りの雨でもはや視界が白い。しかも、どこを探せばいいのか見当もつかない有り様である。容赦なく殴り付けてくる豪雨と強風で、水を含んで重くなった髪や衣服が肌にまとわりつくのが、煩わしくて仕方ない。更に煩わしかったのは、雨粒が目に入ってくることだった。 幸い鍾会の馬は訓練されているため雷鳴に驚いて手綱がきかなくなることはなかったが、八方ふさがりなことに変わりはなかった。 それでも、探さなけば。 もはやその思いは強迫観念めいて、鍾会を急き立てた。 半刻ほど宛てもなく馬を走らせた頃だろうか。 「……これは」 草木乏しい谷間、えぐれた地面を見咎めて鍾会が馬を下りる。近づいてよくよく見てみれば、雨のせいで崩れてはいたが、蹄が強く地面を蹴り上げた跡だと気付いた。この嵐でまだ形状を留めているということは、真新しい痕跡であるはず。 バッと周囲を見渡してみたが、らしい人影を見つけることは出来なかった。 「チッ……あの阿呆、一体どこにいる……!」 落馬すれば、最悪人は死ぬ。死ななかったとして、もしそのまま気を失えばこの雨に容赦なく体温を奪われ、衰弱し、やはり死ぬだろう。大きな傷を負い、血を流しすぎても死ぬ。だから鍾会はじっとしてなどいられなかった。 「私の許しもなく、勝手に死ぬなど……絶対に許さんからな……!」 砂利に爪を立て、握りしめながらそう呟いていた鍾会の耳に、雨でも風でも雷でもない、別の音が聞こえてきた。 かすかなその――音楽は、不思議なことにこの嵐にかき消されることはなく、奇妙に感じた鍾会が音のした方へ視線を向けると、そこには青白い燐光を帯びた一匹の獣が佇んでいた。 その獣は、今まで見てきたどんな獣とも違う容姿をしていた。だが、鍾会はその獣がなんであるかを知っていた。息を呑み、恐々とその名を口にする。 「――き、麒麟……」 音楽が止む。名を呼ぶ声を聞き届けたのか、麒麟は鍾会をじっと見つめてきた。緊張のあまり鍾会の身体が強張る。息をすることすら忘れていた。たった数秒の間だったが、鍾会にはやけに永い時間のように感じられた。 麒麟は指し示すように首をくいっと動かすと、その方角へ足を踏み出した。呆然としている鍾会の後ろ頭を、馬が鼻筋で押してくる。我に返った鍾会は、反射的に麒麟の後を追った。 ついてこい、と。 そう言われているような気がした。 「いっ……つつ……」 身体のあちこちに生じる疼痛に耐えかね、が呻く。掌や肘には血が滲み、足は赤く腫れていた。雨に塗れ冷えた身体で、傷を負った箇所だけは痛みと共に熱を帯びている。 は今、断崖の洞にいた。雨風の浸食によって出来たと思しきこの場所は、誂えたように一人が雨宿り出来る空間があった。 しかし困ったことになった、とは肩を落とす。まさか遠乗りに出掛けた先で嵐に見舞われようとは。もっと運が悪かったのは、雷までもが轟きだしてしまったことだろう。雷鳴に驚いた馬の制御がきかなくなり、振り落とされないように必死にしがみついているうちにどこへきてしまったのやら、にはわかりようもない。そして何度目かの雷鳴、しかも一際大きい轟音に混乱極まった馬は、の健闘も虚しく、振り落として走り去ってしまったのである。なんとか受け身をとり大事には至らなかったものの、やはり無傷というわけにはいかず、脈打つ痛みがを苛んでいた。 依然雨風は激しいまま、時折耳をつんざくような雷鳴に肩が跳ねる。誰だって雷は恐ろしいものだ。ましてやこのような状況であれば、尚更。 凍える体を抱き締める。心細さと、どうしようもない不安が冷えた爪先からじわじわと這い上がって来るようだった。 今はまだ雨が降っているからいい。血の臭いを掻き消してくれる。しかし雨が上がれば、臭気を嗅ぎ付けた獣がやってくるだろう。そうなれば丸腰の上に手負いの自分が対抗する術はない。 それをうまく切り抜けられたとして、都の方角すらわからない自分が、無事に帰りつけるとはとても思えなかった。みじめに野垂れ死んでしまうのだろうか、こんなところで。嫌な考えばかりが頭に浮かぶ。 死ぬのなら優しい養父のため、不器用な上官のため、生まれ育った国のために戦場で死ぬのだと思っていた。もし天が許すならば、太平を迎えた世で静かに一生を終えるものだと。 虚しさとやるせなさに膝を抱えているうちに、涙が込み上げてくる。喉が震え、ひっくひっくと自分の上げる嗚咽が狭い岩壁に反響する。 それ以外には激しい嵐の音しか聞こえない。 そのはず、だった。 「 おい 」 降ってきた、あまりにも聞き慣れた声に、膝に押し付けていた目を見開く。 信じられないような思いで恐る恐る顔を上げれば、頭に浮かんだ人物がびしょ濡れになってこちらを覗き込んでいた。 「しょ、しょうか……」 「探したぞ、この阿呆め」 「………っ!」 言葉とは裏腹に、鍾会の表情は安堵を含んでいる。全身に広がる安心感に感極まり、の双眸から涙が溢れ出した。 その光景にぎょっとした鍾会はおろおろとうろたえた後、ためらいがちに手を伸ばしてきた。そろりと慣れない手つきで、の頭を撫でる。 その感触により一層雫が嵩を増す。 「傷を見せてみろ」 「ぅっ、ぐす、はい……いっ……っ!」 「ふん、折れているかもしれんな……他の傷は擦り傷程度のようだが、大事をとって医者に見てもらえ」 腫れた足に触れられると、痛みが脈動する。鍾会はどこからか添え木になるような枝を見付けてくると、いつも肩にかけている鮮やかな浅葱の布を巻き付けて固定した。 自ずと跪く体勢になっている鍾会に、手当てをしてもらっている間は申し訳なくて仕方がなかった。 その後は鍾会が乗ってきた馬に後ろから支えられる形で跨がり、帰路についた。背中に沁みる体温に始終鼓動が忙しなく、痛みを気にしている暇などにはなかった。一体自分はどうしてしまったのだろう。考え出すときりがない。どうして私が遭難したと知ったのですか、どうしてこんな嵐の中探しに来てくれたのですか。無論聞けるわけもなかったが。 の胸中は、正に嵐のようだった。 都につく頃には雷鳴は鳴りを潜め、暴風雨もだいぶ弱まっていた。 こうして無事に生還することが出来たにある日新たな疑問が浮かぶ。何故、鍾会は自分を見つけることが出来たのだろうかと。あんな洞に身を潜めていたのだから、余程分かりにくかったはずだ。この件は尋ねることが出来たが、私が選ばれた人間だったからだ、となんとも的を得ない答えが返ってきたではないか。 よくわからなかったが、鍾会がそう言うならそうなのだろう。 「……それと」 「はい?」 「今度から遠乗りに行く時は必ず私に声をかけろ。いいな」 有無を言わさぬ調子でそう言われ、気圧されつつははい、と頷いた。仄かに染まった頬に鍾会は気付かない。 後日、二頭の馬が連れ立って駆けていたという。 130427 ほらこれIFルートなんで。師の治世ルートなんで。あとしきちゃん勘違いして反乱しちゃう。 「覚醒」の続き…かもしれない。 戻る |