六太が死んだ。 尚隆の留守中、王宮にて逆賊の手にかかってしまったのだ。やがて治世は七百を迎えようとしていた折の凶事だった。 六太は己の命の重さを知っていた。如何なる人質を以てしても、行動の制約にはならないはずであった。恐らく今の六太ならば、煩悶しつつも、国のために死んでくれ、と人質に言えるだけの胆力があったはずなのである。 もはやこの国をどうこうできるのは、王だけであると考えられていた。 それなのに。 長きに渡る平穏に慣れきった民達は、些細なことに不満をつのらせるようになっていた。恵まれていることは当然で、より豊かになりたいと願う。人の欲には果てがない。そんな民の有り様に疲弊していったのは、尚隆ではなく官吏達であった。 変化の無い安定は堕落をもたらす。あの悪しき王が、この国に退廃を蔓延らせようとしている。 そのような根も葉もない妄執に、多くの官が取り付かれてしまっていた。長きに渡る繁栄は、官吏の心までをも蝕んでいたのである。 事は暗暗裡に整えられ、ついにその日が来てしまった。あらゆる場所に広がった闇が、六太に襲いかかった。使令の守護により逆賊の多くが命を失ったが、よもや六太の逃走を手伝った官までもが――闇に染まっていたとは。 角を斬られ、深手を負って死を覚悟した六太が末期の力を振り絞り向かったのは、二声宮だった。 自らの血にまみれた自国の麒麟に、二声士達が悲鳴を上げる。白稚の少女は自身が赤く染まる事も厭わず、六太に駆け寄った。 六太は詫びた。ごめんな、と。自分の死が遠くない先、この少女を引きずるのを知っていた。は琥珀の双眸からはたはたと涙を流しながら、首を振った。 「あいつのこと、頼む――」 およそ七百年間国を見守りつづけた麒麟は、そう言い残して事切れた。 急ぎ駆け付けた尚隆は直ちに事態を収束したが、半身の死に目を拝むことは出来なかった。 清められた遺骸を前に尚隆はしばし立ち尽くした後、頬を一撫でして大義であった、と労った。万感のこもった静かな声だった。 こうして六太の棺は殯宮に安置され、使令たちの糧となった。 麒麟が死んだ以上、王が身罷るのも時間の問題だった。そしてまた、白稚も。 自身亡き後の国を憂い、尚隆は様々なことに手を回し始めた。延麒の訃報もすぐに広められ、国民の知るところとなった。万事に備えよ、という勅命である。 六太がくれた国を、来る災いから出来るだけ守れるように、という尚隆の想いだった。 「うちは優秀な官吏が多いからな。まあなんとかしのげるだろう」 を膝に乗せ、酒をあおりながらそう言ってのける尚隆に、朱衡は悲痛な面持ちをするばかりである。この王がじきにいなくなる、それが信じがたかった。六太が死んだというのもたちの悪い冗談で、またひょっこりと姿を現しやないかと、そうであってくれと願わずにはいられない。 帷湍と成笙は、もう三百年も前にはそれぞれ去っていた。かつての荒廃を知る者は少ない。王宮にも朱衡を含め、十いるかどうか。 それでもこの主従にならば自分はどこまでもついていく、と思っていたが、さて。 「拙めも、次に王が立たれて朝が整いましたら、うかがうといたしましょう」 寂寞に満ちた呟きに答えはなかった。 六太が死んで、一ヶ月がたとうという頃、尚隆が倒れた。その時が近いのだろう、衰弱しきった顔容には死相がはっきりと見てとれる。 昏睡から目覚めた尚隆はを呼び、二声士を伴ったは傍に侍った。 次いで尚隆がした問いに、その場の誰もが凍りつく。 「、六太はどこだ?」 「尚隆――六太は……」 は言葉に詰まった。言ってよいものかどうか、悩んでいたのだ。尚隆はやれやれ、と呆れている。 「全く、また蓬莱にでも出掛けたか。主人が病に伏せっておるというのに、とんだ薄情者だな。そう思わんか、」 語気は弱々しいものの、あまりにも普通の口調で話す尚隆に、一同が慄然とした。 やがて、意を決したが、 「……六太は、もういない。死んだの……」 そう伝えるも、尚隆はぽかんとしたのも束の間、笑い出したではないか。 「お前もそのような冗談が言えるようになったか」 なにがおかしいのか、尚隆は笑い続けている。明朗な笑い声は、ある一つの推測を確たるものにする。 尚隆は、狂ってしまったのだと。 六太の死に、あの時尚隆は取り乱さなかった。遺骸を前にしても同様だった。 気丈な御方だと、はたまた薄情な王だと、官吏達はそれぞれ勝手な所感を抱いていた。底知れぬ喪失の悲しみに侵されていく王の心を知らぬまま。 あるいは、尚隆自身すら気付いていなかったのかもしれない。 尚隆は麒麟を半身だと言っていた。ならば身体を半分ももがれて、正気でいられるはずがなかったのだ。 「あの不良麒麟め、どこをほっつき歩いているやら」 「おや、主上も人のことを言えた口ではありませんでしょうに。ご自分が王宮を開けられた際には、長々とお戻りいただけないではありませんか」 「それを言われると苦しいな」 他愛ないやり取りを交わす尚隆と朱衡を、はぼんやりと眺める。倒れて以来、尚隆は口を開けばやれ六太はどこにいるだの、やれいつ戻るだのと聞いてくる。会いたいのだろう。会いたくてたまらないのだろう。 本当の事を言い募るのは憚られて、諸官の間では尚隆に話を合わせることになっている。 六太はに、尚隆のことを頼んで逝った。しかし具体的に、どうしてやればいいのかがわからない。 「」 名を呼ばれたので、枕元へ寄る。かさついた手に頬を捉えられ、引き寄せられた。 「その目を、もっとよく見せてくれ」 「尚隆」 「美しい、よい色だ……」 柔らかな表情の尚隆に、も朱衡も閉口する。の瞳の色に、喪った色を重ねているのだ。穏やかに、緩やかに、狂っていく。死んでいく。 稀代の名君が辿るには、あまりにも残酷な末路だった。 「……尚隆」 声が、震える。 「どうした」 「尚隆がよくなってもまだ六太が帰ってこなかったら、一緒に探しに行こう?捕まえて、薄情者だって言ってやらなくちゃ。それか、もしかしたら尚隆が寝込んでるのを知らなくて、どこかに隠れてるのかも。見つけに来るの待ってるのかも」 「……成る程。そうかもしれん」 いつになく口数の多いに、尚隆は満足そうに笑んで、目を閉じる。尚隆が目を閉じる度、いつも朱衡と、並びに控えている官達は身構えた。尚隆はいつ息を引き取ってもおかしくない状態だったのである。 不意に、尚隆がぴくりと何かに反応した。 「六太」 「主上?」 「六太、遅かったではないか。この馬鹿者め」 上体を起こした尚隆は、身体を支える朱衡の事など視界に入っていない。ただ黄昏を受けて黄金に光る正寝の入り口を、喜色ばんだ顔で見つめている。 「。六太が帰ってきたぞ」 「尚隆」 「主上、何を言っておられるのですか」 「三人で出掛けたことはなかったな。よし、朱衡。少し開けるぞ。なに、すぐに戻ってくる」 「主上!」 朱衡の悲痛な叫びが、果たして届いているのかどうか。 「すぐに支度せんとな。、どこに行きたい?」 「……私――」 は泣いていた。 幼い頬をしとどに塗らし、胸の詰まる思いで唇を戦慄かせる。 網膜に浮かぶのは、在りし日の光景。 闊達な王と、悪戯好きの麒麟が、光の中で楽しそうに笑いあっている。当たり前だった、あまりにも尊い過去。 どこに行きたいか、なんて。 「尚隆と六太と一緒なら、どこでもいい。どこでもいいの」 それが例え、不路帰であろうとも―― 黄昏に包まれた正寝で、治世七百年を誇る延王尚隆は崩御した。末声を上げ、役目を全うしたもまた息絶える。少女の亡骸は本来の姿、白稚に変わっていた。その足は次王登極まで玉璽として機能するため、慣例に従い切り落とされた。 延王尚隆の諡号は、側近であり大宗伯の朱衡が命名した。 その諡は―― そして終幕 蓬山の捨身木に新たな雁国の卵果が実る。 やがて生まれた麒麟は、白麒麟だったという。 130606 お題:スピカさま 戻る |