「おや」

またいつものように見聞と称して各国を放浪している道中、男は雁のとある廬で興味を惹かれるものを見つけた。
年端もいかない少女だった。心許なげに周囲を見回している様子から察するに、親とでもはぐれてしまったのだろうか。
それだけならば、ありふれた日常風景の一つになりうるだろう。そうさせなかったのは、他ならぬ少女の風貌だった。
纏う着物は質素な色合いの、ごく一般的な麻仕立てのものだった。頭には頭巾をかぶっている。そんな身なりがひどく不釣合いな白皙の肌に、頭巾からこぼれる真っ白な髪と睫毛、琥珀の瞳――まるで人形のような、繊細な作りをした顔かたち。表情が乏しいのが一層人形じみた印象を男に与えた。
あんな子が一人でいるのは危ないな、などと暢気に考えていると、案の定というかなんというか、妙な風体の男が少女に声をかけるのが見えた。一目で堅気の人間ではないと知れたが、万一保護者でないとも限らない。
(しばらく様子を見てみるか)
だがやはり男の予感は的中していたらしい。二、三言葉を交わした後少女が首を振り、次に不機嫌そうにぶすくれる。それが妙に可笑しくてこっそり笑っていると、じれたのか相手の男が乱暴に少女の細腕を掴んだ。無理にでも連れて行こうとしているのは瞭然である。
いよいよ不味くなってきたのを察し、様子見を止めて歩み寄る。
「その子に何の用かな?」
「……!!なんだあ?てめぇ」
優男の面貌に人のよさそうな笑みを張り付けて近づけば、相手の方はあからさまに顔をしかめ、次いでぎろりと睨みつけてくる。しかし男にはいっかな効果はない。
「なんだ、はこっちの台詞。その子をどこに連れていくつもりだい?」
柄の悪い男にいささかも怯むことなく、にっこりと笑いかけつつ問い質す。先方は一瞬たじろいだが、すぐに調子を取り戻し食って掛かってきた。
「あぁ!?てめえには関係ないだろうがよ!!」
「いやいや。いたいけな女の子が拐われようとしてるのを見過ごすほど、この世に興味を無くしてなくってね」
「はぁ……!?なにわけのわからねえことを言ってんだ!!痛い目見ねえうちにおとなしくどけや!!」
「痛い目、ねえ……」
やけに大声で喚き立てられた台詞に、男は憫笑を禁じえない。
「てめえ!!」
その表情にかっとなったのだろう。先方の男が、胸倉目掛けて腕を伸ばしてきた。しかしその手がこちらを捉える前に身をひるがえして、逆に男の手首を捻りあげる。
「いっで!!いでででで!!」
「ほらほら、人が集まってきてしまったよ?どうする?その子を離すなら見逃してあげるけど」
「……っ!くそ!わかったよ、言うとおりにすりゃあいいんだろ、言うとおりにすりゃあ!!」
癇癪交じりに叫んだ男の手を離してやると、まろびながらも一目散に逃げ出していった。なんだなんだと集まり始めていた衆目は事が片付いたと見るや、またそれぞれに散っていく。その場に残ったのは、男と白い少女だけであった。
「大丈夫だったかい?」
温和にそう尋ねれば、男を仰ぎ見ていた少女はこくりとひとつ頷いて、
「……ありがとう」
良質の鈴が鳴るような愛らしい声だが、子供特有の張りがない。見目から推し測るに、まだ十にも満たない年だろう。その年頃の子供というのは普通、もっと元気がいいものだ。無邪気で、明るくて、やんちゃで。
しかしこの少女には無邪気というより無垢という言葉の方が似つかわしい。ただの子供ではないと、少女を取り巻く空気がそう物語っていた。
そんなことを考えている間にも、少女はもといた立ち位置に戻ろうとしている。
「お嬢ちゃんは、誰かとはぐれてしまったのかな?」
隣に並んでそう問いかけてみれば、少女は人通りに目を向けたまま小さく首肯する。
「じゃあ、一緒に探してあげようか?」
「……いい。知らない人について行っちゃだめだって、朱衡に言われてるから」
「なるほど。間違いない」
思わず苦笑してから、また問いかける。
「その朱衡というのがはぐれてしまった人?」
「ちがう。六太。もしはぐれたら、その場所を動くなって」
「そうか。うん、賢明だね。じゃあ……お嬢ちゃんの探している六太って人が見つかるまで一緒にいても?」
澄んだ琥珀がこちらを映す。その顔立ちにわずかながら驚きが窺えて、男は相好を崩す。
「それならいいだろう?」
少女はちょっと考える風なそぶりを見せる。どう返そうか考えているのだろう。しかし先程のような妙な輩にまた絡まれないとも限らないし、なによりいくら自分が嫌だと言っても、ここから動かないなら意味がない。
少女が頷いて返すと、男は満足そうに破顔した。男は一目で少女のことが気に入ったのだ。
男は平凡を慈しんでいたが、異質なものを愛していたので。

「いい国になりつつあるね、雁は」

道行く人を眺めながら、男が呟く。その声色に少女は異邦人の響きを感じ取る。
「あなた、この国の人?」
「ううん。奏から来たんだ。奏、わかるかい?」
「奏……奏南国?」
「うん。奏南国。お嬢ちゃんは?この里の子かな?」
少女が首を振る。
「関弓から来たの」
「関弓か。この国の首都だね。先に帰っておくわけにはいかないのかい?」
「だめ。六太が心配しちゃう。……雁はいい国になる?」
「なると思うよ。新王が登極なされて三十年とちょっとか。ちょっと前、元州で乱があったろう。畏れ多くも台輔をさらっての謀反。それも王が自ら赴かれ収められたとか。ひどい荒廃だったから復興しきるまでにまだ時間がかかるだろうけど、なにせこの国には勢いがある。いい国になるんじゃないかな」
「……そう」
ふうわりと。
表情に乏しかった少女の幼な顔が、嬉しそうに綻ぶ。
柔らかく、あどけない微笑み。その瞬間、確かにその少女は――ただの童女だった。

「ああーっ!!いたーっ!!」

溌剌な騒ぎ声が鼓膜を刺す。つられて視線を向ければ、頭に布を巻いて髪を隠した少年が、こちらを指差していた。年の頃は十二、十三といったところか。
「六太」
!よかったぁー!探したんだからな!?」
「……ごめんなさい」
「ま、見つかったからいいけどさ。ん?あんたは?」
駆け寄ってきた少年――六太が、少女――の隣で微笑ましくこちらを見ている男に気付く。
「私はただの通りすがりさ」
「そっか。こいつについててくれたんだろ?ありがとな」
「いえいえ、どういたしまして。よかったね、お嬢ちゃん」
「うん」
「ところで関弓までどうやって帰るんだい?結構遠いけど」
「ああ、大丈夫だよ。騎獣いるし」
「騎獣?その年で?そうか、でも残念だな」
「え?」
男はおどけた風で小首を傾げて見せる。
「どうせなら送らせてもらいたかったんだけれど」



「じゃあ気を付けて帰るんだよ」
薄暮に沈みゆく男との別れ際。六太に連れられて帰路につこうとしていた少女だったが、ふと男の傍に舞い戻る。
「どうしたんだい?」
「なまえ」
「え?」
「あなた、名前なんていうの」
零れた髪や肌は茜に染まっている。まろやかな琥珀を称えた瞳が、夕焼けを灯してじっと見上げてくる様に、男の顔に自然柔らかな笑みが浮かんだ。
目線をあわせるように、男がしゃがむ。
「私の名はね――」
その時だった。
「死ねえぇえ!!」
建物の隙間から躍り出る人影。
振り返る。
夕日を照り返す鋼。
昼間逃げていった悪漢。
刃は真っ直ぐにこちらを目掛けて迫ってくる。
しまった、と思った時にはもう遅かった。同時に、あの程度の刀なら受けたところで大した傷も負うまいと。
しかし――思わぬことが、おこった。
!!」
六太が悲鳴を上げる。周囲からも同様の声。
凶刃は少女の小さな身体に吸い込まれていた。
違うのだ。確かに、凶刃はではなく男を狙っていた。
それをこんな頼りない身一つで、が庇ったのだ。
「――…!貴様!」
久しく感じていなかった怒りを覚え、男が悪漢に掴みかかる。そのまま引き倒し、腰に挿していた刀を振り上げた。報復を遂行しようとした刹那、
「だめ」
声が、聞こえた。
「雁の民を殺さないで」
男を止めたのは、他でもないだった。
「尚隆の身体を、えぐらないで」
願う声音も、面差しも、苦痛に歪んではいなかった。それどころか着物には血すら滲んでいない。
、君は……」
「わたしは大丈夫。あのね、雁はまだ国民が少ないの。だから」
「……わかったよ」
言いつつも、悪漢を押さえ付ける力は弛めない。思ったよりも抵抗が少ないのがありがたかった。
そのうちに騒ぎを聞き付けた衛士がやってきて、悪漢は連行されていった。
!!びっくりさせるなよ、心臓が止まると思ったじゃねえか!!」
「でも、わたしなら大丈夫だから」
「だからってなあ……!」
「そうだね。無茶はいけない。……運よく、何事もなかったからよかったものの」
を叱り付ける六太に男も加勢する。は不機嫌そうに眉値をきゅっと寄せて唇を結んだ。
「……無茶じゃない」
その言葉は、恐らく嘘ではないのだろう。あの時、間違いなく悪漢の凶刃はこの少女を捉えたはずだ。にも関わらず、少女は傷一つ受けていない。彼女なりの裏打ちあっての行動だったのだろう。こちらの心情としてはたまったものではなかったが。
「全く……苦労するね?」
「まあな……」
げんなりと肩を落とす六太に苦笑を禁じえない。
「でも――本当にありがとう。助かったよ」
改めて感謝を伝えると、そっぽを向いていたが横目で男をちらりと窺ったが、すぐにまた逸らされてしまった。どうやら機嫌を損ねてしまったようである。まろい頬が少し膨らんでいるのが愛らしいな、と男は思った。
日は完全に暮れて、藍色に染まった天空へ月が上っている。
突如、びくりと六太が肩を震わせた。
「やっば、早く帰んなきゃ……!朱衡が待ちかねてるってよ!」
まるで今伝え聞いたかのような六太の口ぶりに、男は奇妙さを覚える。つくづく不思議な子供達である。
手を引かれたはまだ頬を膨らませていた。
「門限、過ぎちゃったかい?」
「うん、日暮れまでには帰ってこいって言われてたから……!うわー、不味いな」
「一緒に行って事情を説明してあげようか」
「いや、大丈夫だ。じゃあな!」
言うが早いか、六太が走り出そうとする。しかし一歩目でそれは止まった。
「そうだ、名前。あんた、結局名前なんていうんだ?今更だけどおれは六太。そんでこいつがな」
「ああ、すっかり名乗りそびれてしまっていた。――利広、というんだ」
「……利広」
まるでその音を吟味するように、が呟く。
「利広、じゃあね」
「うん。またね」
また会えるのかは全くわからなかった。けれど、利広はそう口にしていた。
またね。
それは、また会いたいという気持ちの表れ。その可能性が無きに等しいと知っていても、利広は口にせずにはいられなかった。
「……またね」
だから少女がそう返してくれたのが、嬉しくて、寂しくて。
利広、号を卓朗君。奏南国国王櫨先新が第二の太子である。仙籍に入った身に老いと死は訪れない。無論、首か胴を断ち切られればその限りではないが。
やがて自分はこの国を去るだろう。次この国を訪れるのはいつになるかわからない。そしてその時、この二人に会えるかどうかなど、もっとわからないのだ。
既に幾度か経験してきたことではあったが、それでも少し物悲しいものがある。


ああ、だけどきっとは美しく育つだろう。その頃を見計らって関弓に行くのも悪くない、と思った。


***
残念!育ちません!!
130601

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